メアリー・ブラック物語10

そんなわけでメアリーのために動きだすとあれこれ不自由も出て来て、そしてやっぱり音楽の仕事がしたい、と思い直した事もあって最終的には旅行代理店も辞めることになった。

これから自分がどういう未来に向かって歩いているのか…そんなことはいっさい考えていなかったが、とにかく自分のやりたいことを追求したいと思っていたのは確かだ。いや、そんなかっこいいもんでもないな。

とにかく前にも書いたけど、転職は私にとってはまったく抵抗のない事だった。っていうか、当時は転職するほうが格好いい、とされてたんだよねー。

そして、友達が運営するプロモーション会社に入ることになる。ここは女ばっかりの会社で、社員というかバイトが4、5人いた。バラしてしまうと、オフィスが恐ろしく汚くほぼ全員がタバコをすっていてヒーコラした。男女共学で育った私には分からんが、女子校…ってこんな感じなのかしら。

あまりに汚すぎるので私がある週末、夜を徹して片付けて物をだいぶ捨てたほどだ。ホントにホントに汚かった。そして私がいる間に事務所を引っ越しした。引っ越しをしたら、まぁ、多少綺麗になったけど…女だけってすごいよね(笑)

でもこの女友達には本当に感謝している。私を拾ってくれた上に、自立するまで手助けをしてくれたのが彼女だからだ。

もちろんメアリーのRepといっても来日やリリースがないかぎりは仕事もないわけで、私は普段はプロモーション会社の一員としての仕事をこなしていた。

最初のアーティストは東芝のフライング・エレファンツで、元いたレコード会社に在籍していたバンドだった。こういっちゃなんだけど、会社に忠誠を誓っても良いことなんてひとつもないが、アーティストはこうやって私のことを拾ってくれるのだわ。そして私を頼ってくれるのだ。ありがたいことだ。

バンドのご使命でEMIのディレクターさんが私に仕事を回してくれた。その仕事を持ってプロモーション会社に入ったんだった。もうこのへんの細かいことは記憶があやふやで覚えてないや…

プロモーション会社の仕事はほぼフリーランスに近く好き勝手やらせてもらっていた。社長が1つしか年が変わらなかったし、結果さえ出せばあまり何か言われることはなかった。ここでは大きな会社にありがちな意味のない不毛なフラストレーションはまったくない。

仕事の内容は、例えばレコード会社やマネジメント会社が例えば何十万か出してどっかに広告出すよりも、野崎を雇ったほうが宣伝効果があると判断した場合、それをギャラとしていただいて、その分ラジオ局や出版社にサンプル盤を持って動く、というものだ。

アメリカなんかはこういうシステムが多いのだけど、日本の場合レコード会社は独自の宣伝部もっているから、あまりポピュラーな方法ではなかった。

それでも当時のEMI、キング、コロンビア、他にもコンサート制作会社や芸能事務所から結構仕事をもらっていたし、結構有名な俳優さんや女優さんとも仕事をしたから、自分にとっても良い経験になったと思う。

アイドルちゃんや、くだらない仕事もたくさんした。

唯一自慢できるのは当時のアルファレコードさんからいただいた日向敏文さんの仕事くらいかな… 日向さんとは音楽の趣味もあったし、話もあったし、今でも大の仲良しだと私は思っている。ちなみに日向さんがソニーからベスト盤を出した時、ライナーノーツを書かせてもらったこともある。あれはホントに光栄な仕事だった。CDのライナーノーツを書いたのは初めてだったんだよね、実は。

最初とまどったけど、でも、私が書けば日向さんも自由にダメだしが出来るし、他の先生たちに書いてもらっちゃ意図するもんにならんだろう、という事もあった。結局ほとんどなおさず、そのままライナーになったんだけど。あれは光栄だったよなぁ。…とさりげなく私がライナーを書いたCDを貼付けておく(笑)


日向さんの代表作の1つ。Little Rascal


あとEMIからはシンガーソングライターの樋口了一さんの仕事が印象に残っている。樋口さんとはその後、私がやっていた文化放送のインターネットに出ていただいたりして、今でもSNSを通じて結構交流しているしライブも時々聞きに行く。

樋口さんといえば、これ! 私が「どうでしょう」好きというと意外に思われることが多いけど、実は樋口さんが入り口なのだったー



でもほとんどの仕事はカスみたいな仕事だった。写真週刊誌のカメラマンに「足出し、肩出しオッケーの新人の女の子ですよ」とか電話してグラビアを取ったり、あと何よりも下らない音楽のほうが予算が多いという、世の中の悲しい宿命があった。良い音楽ほど売れないから予算が少ない。これは当然だった。だから自分の好きな音楽で身を立てるなんて絶対に無理だと思ってた。実際,自分の周りにもいい音楽で身を立てている人は少なかった。

音楽業界でかっこいい人って2種類いると思う。1種類は当ててる人だ。どんなくだらないもんでも当ててお金持ちな人。これは全体の3%いるかいないか…そういう世界だ。あとの1種類は自分の好きなことをやっている人だ。こちらこそ…1%にも満たないんじゃないか? そういう世界なんだよ、と。

でも今回はそれを覚悟で業界に戻って来ているわけだし、このプロモーション会社では下手なレコード会社の宣伝部よりも、うんとクリエイティブな仕事が出来ていたと思う。実際楽しい時代だったよな。今でもこの会社の社長とは年に1度くらい会っている。今では会社をたたんで主婦をやっているが… あの池尻にあった事務所が驚異的に汚かったことは彼女の旦那には内緒だよ(笑)

そうこうしているうちにメアリーの新譜の準備が出来た。アルバム「サーカス」だ。私はプロモーション会社で自分の生活をたてながら、動いた。これは仕事になるかならないかという問題ではない。95年のことだ。

元いたレコード会社では信頼してメアリーを任せられる人が誰もいなかったので、当時もっとも信頼するH川さんのいるメルダックでリリースしようということになった。(ちなみにH川さんとは先日のハワイプロジェクトでもご一緒した。今でも大の仲良しである)メルダックは三菱系のレコード会社だった。

ただリリースの契約においては、別の制作会社が間に入った。さっき会社名をググってみたら、まだ会社は存在していたが事業内容は全然変わってしまったようだ。契約にからむ利益は彼らが持っていった。

これについては今もおじさんたちに恨みはないが、私もあまりにもナイーブだったよな、と思う。まぁ、でもそんなことはどうでも良かった。お金うんぬんの問題ではない。一方のメルダックからはH川さんがプロモーション会社としての仕事を回してくれたから、それだけで充分だった。

だから、ここで来日を絶対に決めないと…ということになったが、すでにPENTAXの冠もなく状況はとても厳しい。

そして出会ったのがプランクトンさんだった。プランクトンの川島恵子社長と私はお互い名前は知っていたものの、その時点まで一緒に仕事をする、という機会には恵まれていなかった。

やっと出会って、ここでやっと恵子さんと仕事が出来ることになる。そしてプランクトンさんとは今も一緒に仕事をしている。

「サーカス」での来日は大成功だった。90、91年のバブルの頃よりも規模は小さくなっていたが、私ははじめてなんだか地に足のついた来日が実現できたようですごく嬉しかった。

それに川島さんと出会ってはじめて私は「好きな音楽を仕事にする」ということの重要性に目覚めたと思う。これについては、また次回。


 プランクトンさんが作ってくれた公演パンフ。

そうそう、この時の来日はドラムがヴァン・モリソンもやってたデイヴ・アーリーだったんだよね。デイヴはこの来日の後、交通事故で亡くなってしまった。夜中、アイルランドから電話がかかってきて叩き起こされた。メアリーの秘書の声をまだ覚えている。

バンドの中でも可愛いキャラクターだったんだけどなぁ、デイヴ。
同じくパンフより。アイリッシュパブの紹介。そう、この頃やっと都内にもアイリッシュパブが出来始めたのだった。














メアリー・ブラック再来日決定。5月19、20日。コットンクラブにて。詳細はこちら。4月23日に私がライナーを書き選曲もしたメアリーのベスト盤が出ます。