Two Brothers - ビル・ジョーンズ

イスラエルによるガザ空爆のニュースを見るにつけ、こんな曲を思い出した。



ここを読んでいる人の中にビル・ジョーンズを覚えている人はいるかしら…2000年前半、Folk RootsやBBCがこぞって持ち上げてた北イングランド出身の伝統音楽家。ビルと言ってもベリンダの略で女の子。歌を歌ってフルートも吹く。伝統歌を自分風にアレンジしたり、伝統詩に曲をつけたり、ゲール語の曲を自分で英語の歌詞にして歌ったり、そういうことをやってた。3枚のアルバムをリリース。今はほぼ引退状態。ステージで歌うことは辞めてしまっているようだ。

今でこそ「幻の歌手」になってしまうのかな?というビル。最後に彼女を呼んだのは2004年だったと思う。この曲はTwo Brothersといって、オリジナルはPete Mortonというイングランド出身のシンガーソングライターが書いた。ちょっと歌詞に耳を傾けると分るのだけどイスラエルとパレスチナのことを歌っている。ビルのこのアルバムが発売になったのは、2003年。まだ2001年の911のテロのすぐ後だだったから、この歌をイギリスで歌うのは難しいんだ、とビルは言っていた。でも、ここ日本なら大丈夫よね、と彼女が弾き語りで南青山マンダラで歌ったこの歌はものすごく感動的だった。

911の事件があった時、アメリカに対して何か物を言うか、言わなくても何か音楽で表現するミュージシャンがウチの連中の中からあらわれるのではないかと、私は単純に期待していた。でもビルのこの曲以外は何もなかったんだよね。もっともアイルランドのミュージシャンにとってはアメリカは一番大事なマーケットだから、今なら彼らの複雑な気持ちも理解できる。が、当時の私は、それをとても物足りなく思っていた。今なら、日本で原発の事故があって、安倍政権になって、当事者として今みたいな状態に自分がおかれて、はじめて、プロテストすることの重さとか責任とか難しさを実感として感じられるようになったのだけど…。

実はビルをウチでリリースできたのはギリギリの幸運だった。当時英国フォーク界はビル一色だったから当然普通に私の耳にもビルのことは入ってきた。でもいわゆるビルの音楽が私の好み直球ではなかったことから、私はこのアーティストを自分のところでリリースするか、どうしようかグズグズしていた。で、そんなところに、某音楽プロダクションがたいしてプロモーションもしないのに伝統音楽の女性歌手3枚まとめて1シリーズみたいな調子でリリースしようとしていたのだから困ったもんだ。当時はまだCDが売れていたからね。そのレーベルは某小売り店と組んでの廉価で安直なリリースだったから、こんなので紹介されては、アーティストとして墓場に行くのと一緒だ。(現に他の2枚がなんだったのか、今となってはまったく思い出せない。もしかしたら5枚のシリーズだったかもしれない。もう忘却の彼方。その音楽プロダクションも今はない)

ま、それはさておき… その音楽プロダクションにとっては、リリースするのが、どんなアルバムでも支障がなかったから、最終的にビルのファースト「Turn To Me」がそっちに載っかり、おかげでウチは新しい方の「Panchpuran」をリリースすることが出来た。最新アルバムが他社から出ていたら私も彼女を来日させてプロモーションしようなんて思わなかっただろうから、まったくギリギリセーフだったよ…。

それにしてもこの頃の私といったら、今よりもうんとテク志向で、ミュージシャンは楽器が上手くリズム感がよくないとダメだと思っていたので、ビルみたいな音楽は正直よく理解出来なかった。でも実際ライブをみてみれば、彼女の持っている、ものすごく強い何かに心を打たれないわけにはいかなかった。そのくらい圧倒的な説得力があるコンサートだった。

彼女にはイングランドのツアーに行って始めて会った。そのあとビルは2回日本に来ている。一度目はナンシー・カーとジェイムス・フェーガンの二人と一緒に来日。2度目の来日はデイヴ・マネリーのデュオと一緒だった。2度目の時はビルは赤ちゃんと旦那さんを連れてやってきた。長男のドミニク君。まだ3ケ月くらい。つまりその10ケ月くらい前にはツアーは確定していたはずだから、彼女は長男が生まれる前に「赤ちゃんが生まれても日本に行く」と決意してくれていたのだ。「子供が生まれても続けていけるか、頑張ってみたい」とメールをしてくる彼女に私は心底感動した。ビルみたいな女の子って、私なんかよりも実はうんと強くて腰が座っている。

実はビルって見た目もそうなんだけど、かなりドン臭いのだ。なんていうか頭もよくて子供の時からプロみたいにして育ってきたナンシーに比べたら、ツアーにおける何もかもがすべてドン臭かった。やたら旅の荷物が多いこともそうだし、サウンドチェックひとつとっても「ビル、それは一番最初にエンジニアさんに言わないと」みたいに、なんていうかすべての段取りがめちゃくちゃ悪い。しかもマネジメントもプロではなく彼女のお母さんが素人仕事でこなしていた。例えばツアーの移動中でも私が一番忙しいときに「あらっ!」とか言いながら、ホントにくだらない質問をしてきたりするんで、私は一緒にいて正直かなり辟易していた。でもそういう女の子って、イザとなると強いんだよね。私なんかよりも、うんと強い。

来日したビルはお母さんになって幸せそうだった。旦那さんがとてもいい人で、ホントに献身的に赤ちゃんの面倒をみていた。マンチェスターだかどこだかの日産に勤めてる、って言ってたなぁ。ウチもあれが赤ちゃん連れツアーの第1回目だったので、ベビーベットを手配してホテルの部屋に入れたり、赤ちゃんお風呂とか、移動用のドライヴシートとかレンタルして、とても良い経験になった。あのあとの赤ちゃんツアー、すべてに自信を持ってあたる事が出来たのもビルのおかげである。

その後、日本でブラフマンというバンドがビルの曲をパンク風にカバーしたり、ライブの客だしBGMに使ったこともあって、このCD「Two Year Winter」はめちゃくちゃ売れた。そういやブラフマンとはレコーディングとかもちょっとやったんだよね。私はそのコーディネイトを手伝ったりもした。

でもビルは子育てが忙しくなって、結局第一線の活動からは身を引いてしまった。そのあと、しばらくしてもうそろそろいいかな、と思って、LAUの3度目の来日の時、前座で来てもらおうとして声をかけた。なんて言うか、LAUが持ってないものすごく大事なものを、ビルが持っていると思ったんだよね。それを偉そうだけど…ラウーの連中にも見せてやりたかった、ってのがあった。彼女のスケジュールも確認して、条件に合意し、いろいろ手配を整え発表までしたのだけど、しかし彼女はその数日後に行ったコンサートでステージにあがったはいいものの、まったく歌うことが出来ず、そのまま静かに引退の道を辿ることになる。

ビルは、おそらくなんだけど子育ての事が上手くいかなくなってプレッシャーにやられてしまったんだと思う。その後、彼女とは全然音信が途絶えてしまった。英国女性はFacebookとかSNSにはまる確率が高いというのに、彼女はそれも全然やっていないので、今やまったく何をしているのか分らない。

でも彼女のホームページを見るにつけ、今やもうほとんど音楽活動はしていない。いつか復活することがあるのだろうか。このままだと「幻の歌手」って事になっちゃうよね。2012年に3人目の子供が生まれたそうで、まぁ、いずれにしても子育てにはまだまだ時間は取られるわな。そして今はゆっくり自宅で音楽を教える仕事をしているようである。

PS
問い合わせが多かったので、このCDをCDショップにアップしました。白石和良さんの解説と、CDシングル(Bits and Pieces)が付いたものです。こちら

PPS
この映画のことも思い出した。「もうひとりの息子」感想はここ