ポールとアンディ・アーヴァインのラジオのインタビューを発見したので、ちょっくら起してみたいと思います。数年前のもので、アンディがちょうど70歳記念コンサートをやる直前に放送になったもの。ポールの方は、そのコンサートにゲストで出演する他、アンソロジー「Dancer in the fire」をリリースしたところ。二人の仲良しな感じが伝わって来ます。
ミリアム(DJ、以下M)「二人が最初に会ったのはいつごろですか?」
ポール(以下P)「アンディを最初に見たのはスイニーズ・メンのコンサートだった。当時は60年代の中頃で巨大なバラッドブームの最中だった。メンバーは、アンディにジョニー・モイニハン、テリー・ウッズ…。スイニーズは、ウディ・ガスリーとか、アパラチアの音楽に影響をうけたオールタイム・アメリカン・ミュージックに影響されていた音楽だ。僕はそれらの音楽が大好きだったし、ダブリンの町中でこれだけのものが聞けるんだ、と驚き、すぐに彼らのファンになったよ」
アンディ(以下A)「僕がポールを見たのはそれより先かな…すごく覚えているんだけど、Duncan & Bradyを歌ってた。すごい声だな、と思った。“ストラバーン・デルタ”だ。すごくよく覚えている」
M「“ストラバーン・デルタ”っていいわね」
P「“ディープ・サウス”か?」
A「いや“ノース”だ(笑)」
M「一緒に演奏するようになったきっかけは?」
A「スイニーズのオリジナル・ギタリストであるゴールウェイ=ジョー・ドーランが脱退したのさ。1967年の6月、アイルランドとイスラエルに紛争がおこった時に、彼はバンドを脱退しイスラエルに飛んだ。…っていうか、彼はヒットシングルが出そうになって、それを恐れたんだな…」
P「成功することを恐れた?(笑)」
A「まさに!! それでポールにバンドに入らないかと誘ったんだ。でも1週間おそかった。彼は1週間前にジョンストンズに加入したからね」
P「僕はミック・モローニーたちやドーナル・ラニーたちと同じフラットに住んでたんだ」
M「毎晩セッションとか、すごかったんでしょうねぇ」
P「いやー 毎晩ポーカーしてたよ(笑)僕の北アイルランドの奨学金はそれで2週間です
べて消えた。ジョンストンズはチャートのトップに上り詰め、当時すごく人気があった。で、バンドに誘われたんだ。加入を決めたあとにスイニーズに誘われた。ああ、おしい!と悔しかったよ」
M「スイニーズに入りたかった?」
P「その当時の一番権威のある帽子はスイニーズだった。それは間違いない。実際にジョンストンズよりもスイニーズに加入していた方が僕にとっては長い目で見ればよいキャリアになっただろうし、楽しめたと思う」
A「でも1回だけ一緒にスイニーズとして演奏したよ。なんていったっけ、あのリムリックのホテル…」
P「ロイヤル・ジョージ・ホテルだ」
A「その時も本当にポールは素晴らしかったから、ダブリンに帰る道すがら、僕らは本当に悔しがったのさ」
しかしポールの言っている事はお世辞でもなんでもなくて、ホントにスイニーズ・メンはこの時期一番かっこよかったのだと思う。この時代のアイルランドの音楽は…ダサかった。そしてポールもドーナル・ラニーも当時のバラッドブームにのっかった営業バンドしかしてなかった。…っていうとひどいけど、Emit Spicelandも、Johnstonsも今、聞いて面白いバンドでは全然ない。
これがEmit Spiceland。
こちらがジョンストンズ。
その点、やっぱりアンディはすごいと思う。上みたいな音楽が流行ってた、そんな時代に、これですよ。このセクシーな弦の絡みを聞け!(笑)アンディこそ…ロンドン生まれだけど…アイルランド音楽の真の革新者だと思う。
そしてこの驚異の名曲が出来るわけなのです。すごい…本当に素晴らしい。この頃のポールの声も本当に素敵よねぇ…
ポール・ブレイディはご存知のとおり来日します。10月! 10月10日(土)、11日(日) 東京、13日(火)が京都。詳細はここ。アンディは奥様が日本人だけど、いったい今ごろどの空の下で何をしているのやら… でもそんなところがまたアンディらしくて素敵ですね。さて、このインタビュー起こし、しばらく続きます。
ミリアム(DJ、以下M)「二人が最初に会ったのはいつごろですか?」
ポール(以下P)「アンディを最初に見たのはスイニーズ・メンのコンサートだった。当時は60年代の中頃で巨大なバラッドブームの最中だった。メンバーは、アンディにジョニー・モイニハン、テリー・ウッズ…。スイニーズは、ウディ・ガスリーとか、アパラチアの音楽に影響をうけたオールタイム・アメリカン・ミュージックに影響されていた音楽だ。僕はそれらの音楽が大好きだったし、ダブリンの町中でこれだけのものが聞けるんだ、と驚き、すぐに彼らのファンになったよ」
アンディ。若い時からハンサム♡ |
M「“ストラバーン・デルタ”っていいわね」
P「“ディープ・サウス”か?」
A「いや“ノース”だ(笑)」
M「一緒に演奏するようになったきっかけは?」
A「スイニーズのオリジナル・ギタリストであるゴールウェイ=ジョー・ドーランが脱退したのさ。1967年の6月、アイルランドとイスラエルに紛争がおこった時に、彼はバンドを脱退しイスラエルに飛んだ。…っていうか、彼はヒットシングルが出そうになって、それを恐れたんだな…」
P「成功することを恐れた?(笑)」
A「まさに!! それでポールにバンドに入らないかと誘ったんだ。でも1週間おそかった。彼は1週間前にジョンストンズに加入したからね」
P「僕はミック・モローニーたちやドーナル・ラニーたちと同じフラットに住んでたんだ」
M「毎晩セッションとか、すごかったんでしょうねぇ」
P「いやー 毎晩ポーカーしてたよ(笑)僕の北アイルランドの奨学金はそれで2週間です
ポール…あらあら…ナードな感じ♡ |
M「スイニーズに入りたかった?」
P「その当時の一番権威のある帽子はスイニーズだった。それは間違いない。実際にジョンストンズよりもスイニーズに加入していた方が僕にとっては長い目で見ればよいキャリアになっただろうし、楽しめたと思う」
A「でも1回だけ一緒にスイニーズとして演奏したよ。なんていったっけ、あのリムリックのホテル…」
P「ロイヤル・ジョージ・ホテルだ」
A「その時も本当にポールは素晴らしかったから、ダブリンに帰る道すがら、僕らは本当に悔しがったのさ」
しかしポールの言っている事はお世辞でもなんでもなくて、ホントにスイニーズ・メンはこの時期一番かっこよかったのだと思う。この時代のアイルランドの音楽は…ダサかった。そしてポールもドーナル・ラニーも当時のバラッドブームにのっかった営業バンドしかしてなかった。…っていうとひどいけど、Emit Spicelandも、Johnstonsも今、聞いて面白いバンドでは全然ない。
これがEmit Spiceland。
こちらがジョンストンズ。
その点、やっぱりアンディはすごいと思う。上みたいな音楽が流行ってた、そんな時代に、これですよ。このセクシーな弦の絡みを聞け!(笑)アンディこそ…ロンドン生まれだけど…アイルランド音楽の真の革新者だと思う。
そしてこの驚異の名曲が出来るわけなのです。すごい…本当に素晴らしい。この頃のポールの声も本当に素敵よねぇ…
ポール・ブレイディはご存知のとおり来日します。10月! 10月10日(土)、11日(日) 東京、13日(火)が京都。詳細はここ。アンディは奥様が日本人だけど、いったい今ごろどの空の下で何をしているのやら… でもそんなところがまたアンディらしくて素敵ですね。さて、このインタビュー起こし、しばらく続きます。