チーフタンズ物語(1)、(2)からの続きです。
パディとオ・リアダの素晴らしい関係はいよいよ蜜月期を迎えることになります。2人は頻繁にピアース・ストリートのトリニティ・バーでミーティングを重ねていきました。オ・リアダはパディの自然な音楽スタイルに魅せられますが、パディの方はそれを音理的に説明する能力を持ち合わせていない。そんな議論が毎晩エンドレスでかわされたそうで、きっとすごく建設的な時間だったでしょうね。ちなみにオ・リアダが集めたメンバーの中には楽譜がまったく読めないメンバーもいて、ある日メンバー同志で交換されたに紙には「ハム・バタ・エッグ/ハム・バタ・エッグ/ハム・バタ・ベーコン・エッグ/ハム・バタ・エッグ」と書いてあったんだって。そしてそれを見ながらみんなで練習した、って話もありました。そうやってオ・リアダのバンド「キョールトリ・クーラン」が生まれたのです。バンドはラジオでのレギュラーを取り付けたり、めきめきと人気を延ばしていきます。
しかしそんな楽しい時間もあまり長くは続かなかった。なんか私たちからすると歴史上の偉人みたいなイメージのあるオ・リアダですが(写真のせいかな…)、実際はすごく不安定でアーティスティックな人でした。例えば生活能力はまったくないに等しく、家の電機を料金滞納で止められてしまっているのに高級車のジャガーを買ってしまい、友達にガソリン代を無心したり、奥さんは叫んで怒りまくるなど、たくさんの問題をかかえていたのだそうです。また伝統音楽の純粋主義者からは彼等の音楽は異端として受け入れられていました。高等教育を受けたオ・リアダが純粋な伝統音楽を食い物にしている、と取った人もいたようなのです。このインタビューとかすごく面白い。
これとかパイプはきっとパディなんでしょうね。それにしてもバウロンをミュートする習慣がなかったこの頃、バウロンの音の手触りが今と全然違う(笑)
しかしこういうラブラブ期間も長くなってくると問題が起こるのが人間関係の常。キョールトリ・クーランの音楽監督(オ・リアダ)、そして首席ソリスト(パディ)は、音楽的意見でしばしば対立することにもなります。この頃のパディはすでに本当にすごかったようで、バンド・メンバー全員のパートを覚えては、メンバーに超頼りにされていました。バンド全員がパディの視線や合図に注目しながら演奏していたんだって。めっちゃ頼られてたんですね。
そして1960年代になるとパブ・オドノヒューズをはじめとしてダブリンの町中に伝統音楽が流行しはじめます。この頃、実はパットとのちにチーフタンズのメンバーになるマット・モロイは出会っています。地方出身のマット・モロイは、エア・リンガス(アイルランド航空)に勤めるためにダブリンに出てきていたのでした。高級レストランでもホテルのロビーでもアイルランド音楽の需要はいくらでもあった時期でした。
この伝統音楽の盛り上がりの理由の大きな原因の1つに海の向こうで大ヒットしたクランシー・ブラザーズの成功があげられます。彼等はティッペラリーで生まれ、1940年代にニューヨークに渡り、グリニッチ・ヴィレッジで歌って大成功を収めていました。全世界的なフォーク・ブームが押し寄せてきていたんですね。クランシー・ブラザーズはカネーギー・ホールでの公演を満員にし、全米をツアーするようになっていた。彼らが帰国した時、アイルランドは国をあげての熱狂の嵐の中、彼らを迎えたのでした。
さてクラダ・レコードでは、1962年、レオ・ロウサムの名盤、そしてパトリック・キャバナ(Raglan Roadの作詞者です)のたいへん貴重な朗読アルバムを発表し、世間から認められるようになってきました。ガレク・ブラウンはクラダの3枚目の作品としてパディに何か新しいグループを組んでレコードを作るように依頼します。パディは仲良しのマイケル・タブリディ、そしてショーン・ポッツを選び、アビー座の仲間であったマーティン・フェイにも声をかけます。奥さんのリタの実家でリハーサルが行なわれるようになり、これがチーフタンズの始まりとなりました。
録音はじっくり行なわれました。もちろん通常の9時/5時の仕事が終ってから… その毎晩の3時間はすごいプレッシャーのもと充実した時間だったとパディは語ります。そして音が完成した時、まだバンド名がなかった。
パディにバンド名を提案したのはクラダ・レコードの役員の1人だった詩人のジョン・モンタギュー。彼の本のタイトル「Death of a chieftain(族長の死)」からバンド名を取ったんですね。ファーストアルバムの発売日は盛大なパーティがガレクによって主催され、プレス的にも大好評を得たのだそうです。
でもこのファースト・アルバムを聴いたオ・リアダは、あまり気分がよくない。とある雑誌に論評を載せます。そこには「概していえば実に見事」としながらも、あれこれ文句をつけるコメントもあったようで、パディは不愉快に思ったものの反論する気まではおきなったと後から話しています。
さてこのアルバムが出た1964年、とあるラジオ番組のコンペティションで優勝を果たしたショーン・キーンがキョールトリ・クーランに招かれます。1946年にダブリンで生まれたショーンは、幼いころから伝統音楽にひたりフィドルを演奏していました。弟のジェイムス・キーン(ポール・ブレイディに伝統音楽を教えた人でもあります)とともに9歳の時点でパイパーズ・クラブに出入りしていたようで、この連れられて来た小さな天才兄弟をパディも記憶していており「これは恐ろしいことになったぞ」と思ったそうです。
ショーンはそののちクラシックの勉強も始めるのですが、先生が非常に心の広い先生だったため、伝統音楽を見下すようなことはいっさいなかったんだって。ショーンにとってはダブリンの伝統音楽シーンの最高峰であるキョールトリ・クーランに参加することは大変名誉なことでした。
一方でガレクを囲むセレブリティ・サークルも、パディに新しい道をしめしつつありました。ガレクの豪邸に招かれたローリング・ストーンズやピーター・オトゥール、ショーン・コネリーなど、自然とパディは交流していくようになります。パディたちの演奏は館を訪ねるゲストに強烈な印象を残しました。マリアンヌ・フェイスフルは「まるで中世に紛れ込んだみたいだった」と当時を回想しています。ストーンズのメンバー、特にミック・ジャガーも音楽を聴いて非常に感心し、チーフタンズのLPをロンドンに持ち帰り,他のメンバーに聞かせるようになります。
ロンドンでブライアン・ジョーンズのパーティに呼ばれたパディは、そこでストーンズのメンバー全員がチーフタンズのアルバムを聞いているのを見て仰天したそうです。「僕らのレコードをストーンズが聞いているなんて、もしかしたら僕らはちょっとイケてるのかも」とその時初めて思ったのだそうです。「気がつくと僕らは超有名な映画スターたちの世界に飛び込んでいった」とパディは回想します。朝、すごいリムジンが到着して、ダブリンで撮影中の彼らが主催するパーティで演奏したり…。そんな風にしてガレクが紹介する有名人たちとパディは交流を温めていったのでした。
1968年になり、パディはガレクに説得されてついに12年間つとめたバクセンデイル社を退職しクラダ・レコードに入社します。パディのお母さんはこの時,本当に怒ってしまい、パディがのちにトリニティ・カレッジから名誉博士号をもらうまで許してくれなかったそうです。
パディはロンドンやニューヨークに出張したりしてクラダの音源を売って回る精力的な営業マンでした。パディ家にはこの頃2人の子供が生まれていたのだけど、長女のエイディーンは「パパはほとんど家にいなかった」と回想しています。パディは優秀なビジネスマンとしてメキメキと頭角をあらわし、LPを書店で売ってもらったりとか、今では当たり前となった斬新なアイディアでクラダ・レコードを躍進させていきます。
チーフタンズも一方でメンバーの調整にあけくれながらエジンバラなどにも演奏に出かけるようになります。そこにわざわざミック・ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルをともなって聴きにきていたのだから、すごいです。主催者は単なるアイルランド伝統音楽のバンドをブッキングしただけだったのに、そこに超大物が来場してさぞびっくりしたでしょうね。発売から4年が経過していたファースト・アルバムも当時影響力が強かったDJジョン・ピールが強烈に押してくれたおかげで、BBCなどでも頻繁にかかるようになっていたそうです。風が少しずつチーフタンズを押し上げるように吹いてきました。
そして1968年、高まる人気に投資をせよ、ということでパディはガレクのお尻を叩きセカンド・アルバムの制作にとりかかります。レコーディングはエジンバラで行なわれ、土曜日の朝にはじまり日曜日の夜に終るスケジュールだったのだけど(おそらくミックス作業などをエンジニアに任せて)帰国し、届いたテスト盤を聴いたパディは愕然とします。「音が良くない」「これでは発売が出来ない」
当時クラダのアルバムはイギリスではEMIが配給していたので、パディはEMIの社長にかけあってスタジオをなんとか手配してくれるように頼みこみます。この時、ロンドンのアビー・ロード・スタジオを使っていたのは、あの「アビー・ロード」を録音するためにスタジオをロックアウトしていたビートルズだった。彼らはこころよくチーフタンズにスタジオのスケジュールを半日譲ってくれたのでした。ちょっと素敵なエピソードですね。
そして再度カットされたテスト盤は無事にパディのオッケーとなり、チーフタンズのセカンドが発売されることになりました。
(4)に続く。
チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。アイルランドのガイド・ブックを最近出版された山下直子さんのトークショウ他、豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
★
オ・リアダ |
しかしそんな楽しい時間もあまり長くは続かなかった。なんか私たちからすると歴史上の偉人みたいなイメージのあるオ・リアダですが(写真のせいかな…)、実際はすごく不安定でアーティスティックな人でした。例えば生活能力はまったくないに等しく、家の電機を料金滞納で止められてしまっているのに高級車のジャガーを買ってしまい、友達にガソリン代を無心したり、奥さんは叫んで怒りまくるなど、たくさんの問題をかかえていたのだそうです。また伝統音楽の純粋主義者からは彼等の音楽は異端として受け入れられていました。高等教育を受けたオ・リアダが純粋な伝統音楽を食い物にしている、と取った人もいたようなのです。このインタビューとかすごく面白い。
これとかパイプはきっとパディなんでしょうね。それにしてもバウロンをミュートする習慣がなかったこの頃、バウロンの音の手触りが今と全然違う(笑)
しかしこういうラブラブ期間も長くなってくると問題が起こるのが人間関係の常。キョールトリ・クーランの音楽監督(オ・リアダ)、そして首席ソリスト(パディ)は、音楽的意見でしばしば対立することにもなります。この頃のパディはすでに本当にすごかったようで、バンド・メンバー全員のパートを覚えては、メンバーに超頼りにされていました。バンド全員がパディの視線や合図に注目しながら演奏していたんだって。めっちゃ頼られてたんですね。
(C)Chieftains web site |
この伝統音楽の盛り上がりの理由の大きな原因の1つに海の向こうで大ヒットしたクランシー・ブラザーズの成功があげられます。彼等はティッペラリーで生まれ、1940年代にニューヨークに渡り、グリニッチ・ヴィレッジで歌って大成功を収めていました。全世界的なフォーク・ブームが押し寄せてきていたんですね。クランシー・ブラザーズはカネーギー・ホールでの公演を満員にし、全米をツアーするようになっていた。彼らが帰国した時、アイルランドは国をあげての熱狂の嵐の中、彼らを迎えたのでした。
さてクラダ・レコードでは、1962年、レオ・ロウサムの名盤、そしてパトリック・キャバナ(Raglan Roadの作詞者です)のたいへん貴重な朗読アルバムを発表し、世間から認められるようになってきました。ガレク・ブラウンはクラダの3枚目の作品としてパディに何か新しいグループを組んでレコードを作るように依頼します。パディは仲良しのマイケル・タブリディ、そしてショーン・ポッツを選び、アビー座の仲間であったマーティン・フェイにも声をかけます。奥さんのリタの実家でリハーサルが行なわれるようになり、これがチーフタンズの始まりとなりました。
The Chieftains 1 |
パディにバンド名を提案したのはクラダ・レコードの役員の1人だった詩人のジョン・モンタギュー。彼の本のタイトル「Death of a chieftain(族長の死)」からバンド名を取ったんですね。ファーストアルバムの発売日は盛大なパーティがガレクによって主催され、プレス的にも大好評を得たのだそうです。
でもこのファースト・アルバムを聴いたオ・リアダは、あまり気分がよくない。とある雑誌に論評を載せます。そこには「概していえば実に見事」としながらも、あれこれ文句をつけるコメントもあったようで、パディは不愉快に思ったものの反論する気まではおきなったと後から話しています。
(C) Chieftains web site |
ショーンはそののちクラシックの勉強も始めるのですが、先生が非常に心の広い先生だったため、伝統音楽を見下すようなことはいっさいなかったんだって。ショーンにとってはダブリンの伝統音楽シーンの最高峰であるキョールトリ・クーランに参加することは大変名誉なことでした。
一方でガレクを囲むセレブリティ・サークルも、パディに新しい道をしめしつつありました。ガレクの豪邸に招かれたローリング・ストーンズやピーター・オトゥール、ショーン・コネリーなど、自然とパディは交流していくようになります。パディたちの演奏は館を訪ねるゲストに強烈な印象を残しました。マリアンヌ・フェイスフルは「まるで中世に紛れ込んだみたいだった」と当時を回想しています。ストーンズのメンバー、特にミック・ジャガーも音楽を聴いて非常に感心し、チーフタンズのLPをロンドンに持ち帰り,他のメンバーに聞かせるようになります。
ロンドンでブライアン・ジョーンズのパーティに呼ばれたパディは、そこでストーンズのメンバー全員がチーフタンズのアルバムを聞いているのを見て仰天したそうです。「僕らのレコードをストーンズが聞いているなんて、もしかしたら僕らはちょっとイケてるのかも」とその時初めて思ったのだそうです。「気がつくと僕らは超有名な映画スターたちの世界に飛び込んでいった」とパディは回想します。朝、すごいリムジンが到着して、ダブリンで撮影中の彼らが主催するパーティで演奏したり…。そんな風にしてガレクが紹介する有名人たちとパディは交流を温めていったのでした。
1968年になり、パディはガレクに説得されてついに12年間つとめたバクセンデイル社を退職しクラダ・レコードに入社します。パディのお母さんはこの時,本当に怒ってしまい、パディがのちにトリニティ・カレッジから名誉博士号をもらうまで許してくれなかったそうです。
パディはロンドンやニューヨークに出張したりしてクラダの音源を売って回る精力的な営業マンでした。パディ家にはこの頃2人の子供が生まれていたのだけど、長女のエイディーンは「パパはほとんど家にいなかった」と回想しています。パディは優秀なビジネスマンとしてメキメキと頭角をあらわし、LPを書店で売ってもらったりとか、今では当たり前となった斬新なアイディアでクラダ・レコードを躍進させていきます。
チーフタンズも一方でメンバーの調整にあけくれながらエジンバラなどにも演奏に出かけるようになります。そこにわざわざミック・ジャガーがマリアンヌ・フェイスフルをともなって聴きにきていたのだから、すごいです。主催者は単なるアイルランド伝統音楽のバンドをブッキングしただけだったのに、そこに超大物が来場してさぞびっくりしたでしょうね。発売から4年が経過していたファースト・アルバムも当時影響力が強かったDJジョン・ピールが強烈に押してくれたおかげで、BBCなどでも頻繁にかかるようになっていたそうです。風が少しずつチーフタンズを押し上げるように吹いてきました。
そして1968年、高まる人気に投資をせよ、ということでパディはガレクのお尻を叩きセカンド・アルバムの制作にとりかかります。レコーディングはエジンバラで行なわれ、土曜日の朝にはじまり日曜日の夜に終るスケジュールだったのだけど(おそらくミックス作業などをエンジニアに任せて)帰国し、届いたテスト盤を聴いたパディは愕然とします。「音が良くない」「これでは発売が出来ない」
当時クラダのアルバムはイギリスではEMIが配給していたので、パディはEMIの社長にかけあってスタジオをなんとか手配してくれるように頼みこみます。この時、ロンドンのアビー・ロード・スタジオを使っていたのは、あの「アビー・ロード」を録音するためにスタジオをロックアウトしていたビートルズだった。彼らはこころよくチーフタンズにスタジオのスケジュールを半日譲ってくれたのでした。ちょっと素敵なエピソードですね。
そして再度カットされたテスト盤は無事にパディのオッケーとなり、チーフタンズのセカンドが発売されることになりました。
(4)に続く。
★
チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。アイルランドのガイド・ブックを最近出版された山下直子さんのトークショウ他、豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ。
★
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール