(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)からの続きになります。いよいよアイリッシュ・フルートの神様:マット・モロイが登場しますよ。
チーフタンズは積み重なる激務で疲弊していたものの、自宅で充分に休養を取ったパディは負けていません。アルバム作りにおける音楽的権限をさらにメンバーに与えることで、パディはメンバーを説得します。そうして制作された「チーフタンズ7」にはこの頃のバンドの様子がかっちり収められています。
とにかく当時のパディといえば、コンサートのブッキングからマネジメント、そして新しいレコード会社のコロンビアとの交渉を自分ですべて引受けていたのでした。そしてこの年の3月15日にはのちに恒例となるニューヨークのカーネギーホールでの公演をスタートさせます。一方で、お家を素敵なウィックロウに移すなど、パディと奥様のリタ、3人の子供たちの私生活も充実していきます。 この家にはとても素敵な大きなガラスばりのミュージックルームが出来て、ここがパディの仕事場になるのです。
当時パディが耐えていた重圧は本当に察してあまりあるものがありますが、それでも「チーフタンズ8」の頃になると、だいぶバンドの仕事のパターンが出来てきて仕事もやりやすくなってきます。(それだけバンドのマネジメント力が強くなり、成功しているということだと思います)アルバムは、常にツアーが静かになる秋に取りかかり、あっという間に制作してしまうようになりました。レコーディングにおいてのチーフタンズは常に録音に新鮮さを保つようにとても気をつかっていました。
そうこうしているうちに、チーフタンズに新しい変化が訪れることになります。マイケル・タブリディは、ついにかつての職場へと戻っていくことを決意します。彼はかねてからステージにおける恐怖を語っており,本番前に十分な練習時間が取れないことに不満を感じていました。そしてアメリカ・ツアーではショーン・ポッツが飛行機のトラブルに切れてしまい、もう二度とツアーはしないという結論にいたったのでした。ポッツも郵便局へと戻っていきます。一方でショーン・キーンやケヴィンは、パディの説得のもと、バンドに残ることを決意したのでした。
パディも両手にあまりある業務量に本当に疲れていました。ここで新マネージャーとして登場するのが、のちにリバーダンスに着手することになるモーリス・キャシディ。(だからパディに言わせれば,のちに桁違いの成功を収めるリバーダンスの、ああぃうステージのアイディアは、チーフタンズから学んだんだ、という結論になるわけです。それは確かにそうかもしれない)。
そしてチーフタンズに新たなフルート奏者が加入することになります。それがマット・モロイでした。マットは1947年1月12日、ロスコモン州に生まれました。お家は代々続く音楽家の家系で、3人息子の末っ子であるマットも伝統音楽の洗礼を受けて育ちました。12歳の頃にはマーチング・バンドに入って、父親がフルートを教えてくれたのだそうです。
1964年、マットは兄が勤務していたエア・リンガス・アイルランド航空の航空機整備士のコースに合格し、そこから工科学校に送りこまれ、全日制で四年間航空工学を学ぶことになったのでした。(チーフタンズの全員、真面目でお勉強が出来て、優秀ですよね… みんな音楽家になってなくても成功していたと思うわ)
そしてマットは当時から、その当時チーフタンズをスタートさせていたパディ、フィドラーのトミー・ピープルズ、リアム・オフリンなどともパブで演奏するようになっていったのです。ハンサムで優しいマットは当時から女の子にモテモテだったらしい。お洋服もかっこよく、スタイリッシュでダンディだったのでした。(今でもそうですけどね!)70年代になりエア・リンガスの正社員となったマットでしたが、音楽はあくまで副業。ちなみにのちに奥様となるジェラルディンさんとは、この時、エア・リンガスで出会っているそうなのです。
73年。ドーナル・ラニー、トミー・ピープルズ、パディ・キーナンらとマットが始めたのが、ボシーバンドです。ボシーバンドは、アイルランド音楽史上、もっともイノヴェイティブなバンドとして、大変な人気者となるわけです。
74年になり、マットは会社から半年の休暇をもらい音楽で生計がたてられるかどうかボシー・バンドにかけてみることにしたそうです。また76年にはマット は初のソロ・アルバム「マット・モロイ」も制作しています。マットがアイルランドのNo.1 フルート奏者であることは名実ともに明らかでした。
こちらは77年のボシー・バンド。かっこいい!
しかし一方で、チーフタンズではありえないほど、マットたちボシー・バンドはロックン・ロールのマッドな生活にハマっていってしまうのです。そしてついに、77年後半、マットは日頃の不摂生がたたり結核だと診断されてしまいます。フルート吹きなのが幸いして、異常に早めに気づいたから良かったものの、2年もの間、通常の生活を取り戻すことは出来なかったのでした。そのうち2ケ月は本当に寝たきりだったそうです。
79年ボシーバンドは解散。マットはソロでクラブ回りをする生活に戻っていきます。途中79年の春にドーナルに誘われてプランクシティの再結成に参加したりしますが、アルバムがリリースされてツアーが終わるとまたマットは静かな生活へ。
そこに絶妙なタイミングで電話をかけてきたのがパディでした。チーフタンズのツアーにゲストで参加しないか、と。
「パディはよく知っていたし、ショーンとも友達だった。チーフタンズの音楽はとても尊敬していたんだ」とマットは話します。マットが初めてチーフタンズと一緒にステージにたった時はヴァン・モリソンの前座だったそうで、そのままマットは英国ツアーをチーフタンズと一緒に回ると、次のアルバム「チーフタンズ9」にもゲスト参加したのでした。
しかし、それでもマットはこの参加は一時的なものとして捉えていました。だから普通に友人のリアム・オフリンとイングランドのクラブツアーを計画していたんだって。そこにパディが連絡をいれてきて「アメリカに行くぞ」と言う。「あれ、バンドに入っていると前に言わなかったかね?」ととぼけるパディにマットは「言われたような気がするけどな」と答え、気をきかせたリアムが別のミュージシャンの代理をたててくれた事もあり、マットはそのままチーフタンズの正式メンバーとなったのでした。
やっとこれで日本のファンがよく知っている初来日当時のチーフタンズのメンバーになりました!! このメンバーでのちに日本の地も踏む事になるわけです。
(12)に続く。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
★
チーフタンズは積み重なる激務で疲弊していたものの、自宅で充分に休養を取ったパディは負けていません。アルバム作りにおける音楽的権限をさらにメンバーに与えることで、パディはメンバーを説得します。そうして制作された「チーフタンズ7」にはこの頃のバンドの様子がかっちり収められています。
とにかく当時のパディといえば、コンサートのブッキングからマネジメント、そして新しいレコード会社のコロンビアとの交渉を自分ですべて引受けていたのでした。そしてこの年の3月15日にはのちに恒例となるニューヨークのカーネギーホールでの公演をスタートさせます。一方で、お家を素敵なウィックロウに移すなど、パディと奥様のリタ、3人の子供たちの私生活も充実していきます。 この家にはとても素敵な大きなガラスばりのミュージックルームが出来て、ここがパディの仕事場になるのです。
当時パディが耐えていた重圧は本当に察してあまりあるものがありますが、それでも「チーフタンズ8」の頃になると、だいぶバンドの仕事のパターンが出来てきて仕事もやりやすくなってきます。(それだけバンドのマネジメント力が強くなり、成功しているということだと思います)アルバムは、常にツアーが静かになる秋に取りかかり、あっという間に制作してしまうようになりました。レコーディングにおいてのチーフタンズは常に録音に新鮮さを保つようにとても気をつかっていました。
そうこうしているうちに、チーフタンズに新しい変化が訪れることになります。マイケル・タブリディは、ついにかつての職場へと戻っていくことを決意します。彼はかねてからステージにおける恐怖を語っており,本番前に十分な練習時間が取れないことに不満を感じていました。そしてアメリカ・ツアーではショーン・ポッツが飛行機のトラブルに切れてしまい、もう二度とツアーはしないという結論にいたったのでした。ポッツも郵便局へと戻っていきます。一方でショーン・キーンやケヴィンは、パディの説得のもと、バンドに残ることを決意したのでした。
パディも両手にあまりある業務量に本当に疲れていました。ここで新マネージャーとして登場するのが、のちにリバーダンスに着手することになるモーリス・キャシディ。(だからパディに言わせれば,のちに桁違いの成功を収めるリバーダンスの、ああぃうステージのアイディアは、チーフタンズから学んだんだ、という結論になるわけです。それは確かにそうかもしれない)。
そしてチーフタンズに新たなフルート奏者が加入することになります。それがマット・モロイでした。マットは1947年1月12日、ロスコモン州に生まれました。お家は代々続く音楽家の家系で、3人息子の末っ子であるマットも伝統音楽の洗礼を受けて育ちました。12歳の頃にはマーチング・バンドに入って、父親がフルートを教えてくれたのだそうです。
1964年、マットは兄が勤務していたエア・リンガス・アイルランド航空の航空機整備士のコースに合格し、そこから工科学校に送りこまれ、全日制で四年間航空工学を学ぶことになったのでした。(チーフタンズの全員、真面目でお勉強が出来て、優秀ですよね… みんな音楽家になってなくても成功していたと思うわ)
そしてマットは当時から、その当時チーフタンズをスタートさせていたパディ、フィドラーのトミー・ピープルズ、リアム・オフリンなどともパブで演奏するようになっていったのです。ハンサムで優しいマットは当時から女の子にモテモテだったらしい。お洋服もかっこよく、スタイリッシュでダンディだったのでした。(今でもそうですけどね!)70年代になりエア・リンガスの正社員となったマットでしたが、音楽はあくまで副業。ちなみにのちに奥様となるジェラルディンさんとは、この時、エア・リンガスで出会っているそうなのです。
73年。ドーナル・ラニー、トミー・ピープルズ、パディ・キーナンらとマットが始めたのが、ボシーバンドです。ボシーバンドは、アイルランド音楽史上、もっともイノヴェイティブなバンドとして、大変な人気者となるわけです。
74年になり、マットは会社から半年の休暇をもらい音楽で生計がたてられるかどうかボシー・バンドにかけてみることにしたそうです。また76年にはマット は初のソロ・アルバム「マット・モロイ」も制作しています。マットがアイルランドのNo.1 フルート奏者であることは名実ともに明らかでした。
こちらは77年のボシー・バンド。かっこいい!
しかし一方で、チーフタンズではありえないほど、マットたちボシー・バンドはロックン・ロールのマッドな生活にハマっていってしまうのです。そしてついに、77年後半、マットは日頃の不摂生がたたり結核だと診断されてしまいます。フルート吹きなのが幸いして、異常に早めに気づいたから良かったものの、2年もの間、通常の生活を取り戻すことは出来なかったのでした。そのうち2ケ月は本当に寝たきりだったそうです。
79年ボシーバンドは解散。マットはソロでクラブ回りをする生活に戻っていきます。途中79年の春にドーナルに誘われてプランクシティの再結成に参加したりしますが、アルバムがリリースされてツアーが終わるとまたマットは静かな生活へ。
そこに絶妙なタイミングで電話をかけてきたのがパディでした。チーフタンズのツアーにゲストで参加しないか、と。
「パディはよく知っていたし、ショーンとも友達だった。チーフタンズの音楽はとても尊敬していたんだ」とマットは話します。マットが初めてチーフタンズと一緒にステージにたった時はヴァン・モリソンの前座だったそうで、そのままマットは英国ツアーをチーフタンズと一緒に回ると、次のアルバム「チーフタンズ9」にもゲスト参加したのでした。
しかし、それでもマットはこの参加は一時的なものとして捉えていました。だから普通に友人のリアム・オフリンとイングランドのクラブツアーを計画していたんだって。そこにパディが連絡をいれてきて「アメリカに行くぞ」と言う。「あれ、バンドに入っていると前に言わなかったかね?」ととぼけるパディにマットは「言われたような気がするけどな」と答え、気をきかせたリアムが別のミュージシャンの代理をたててくれた事もあり、マットはそのままチーフタンズの正式メンバーとなったのでした。
やっとこれで日本のファンがよく知っている初来日当時のチーフタンズのメンバーになりました!! このメンバーでのちに日本の地も踏む事になるわけです。
(12)に続く。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
PS
この夏に行なわれたパディの最新インタビューも続々と発表になっています〜! 必読。