絲山秋子さん『絲的ココロエ 「気の持ちよう」では治せない』を読みました


絲山秋子さんのこういう小説じゃない作品を読むのは初めて…かも? 双極性障害いわゆる躁鬱病との付き合い方を紹介した本。世の中この手の本は多かれど、芥川賞作家がこれをしっかり書くということがすごい。つまり、絲山さんによる、自分はこんなふうに障害と付き合ってます、っていう内容の本だ。

これ、すごいなぁ、と思った。自分のこと書いてるのに、すごく冷静で客観的に書いてる。もちろん、そりゃ言えないこととかもたくさんあるだろうし、ここに書いてあることがすべてではないと想像するが、とにかくジャーナリストの人が書いた物とはまた違う。そして違うながらも、めっちゃ冷静で、しかも普段の絲山さんの小説…普段、私は速読というか斜め読み的に読むのがめっちゃ早いのであるが、妙に噛みしめるようにじっくりゆっくり読んでしまった。なんでだろう。文章を味わいたいのかな。無駄のない、ゴシゴシ磨かれた文章を味わう感じは、角幡唯介さんの文章を読む時と似ている。

雑誌のインタビューか何かで読んだことがあるので、絲山さんのこのことは前から知っていたのだけど、とにかく静か、しかしながらパワフルな本だった。

絲山さんも書いているが、双極性の場合、鬱よりも躁の方がディールしていくのが大変なのだ。私も躁鬱の問題をかかえたミュージシャンと仕事をしたことがあるが、正直、その人が躁の時は大変だった。鬱の時はこちらも励ますだけで良かったのだが(当時はまだ励ますのが良いとされていた)、躁状態になると手がつけられず、早朝、うちの電話を鳴らしては「野崎さん、いつまでも寝てないで早く起きて仕事してください」とか留守電話がしゃべるのを布団の中で聞いていたこともある。絲山さんが「躁状態」のときの危うさを説明しているのを読みながら、そのことを思い出したよ…。

私も障害というほどではないけど、少なからず「躁鬱」はある。っていうか、誰にだって程度の違いはあれど、あるものだろう。たとえば、思い出すと私は311で崩れた部屋がどうしても片付けられず最終的に半年後、引越しをした時。あれは今考えても「鬱状態」だったのだと思う。14年住んでいた部屋を引き払ったのだが、どうしても「住めば都」になっちゃうタイプの自分なので、いったん住むと引越しはあまりしたくなかった。でも引っ越さないと部屋は永遠に片付かない、とわかったのだ。いや、そう言いながらもちゃんと仕事してたし、普通に生活できてたし、友達とも会ってたし、地震後4月にはすぐツアーもあった。でも部屋がどうしても片づけられなかった。部屋は生活導線はあるものの、本棚とかずっと倒れたままだった。

病気になった時もそうだ。今思えば、あれは鬱だったのかも?と思い当たることがたくさんある。そして今はちょっとした躁状態かも? 早く仕事をたくさんしたくてしょうがない。ほおっておくと、好きなミュージシャン全員に「日本に来ない?」とメールしちゃいそうである(笑)。でも同時にもう体力的にも気力的にも続かないことは自覚しており「60になり、今のマンションの契約を一度更新して、それが終わるあと6年後には引退」と思わないとやってられない、ってことで、躁状態の自分を落ち着かせている自分もいる。あぁ…

それにしても、このエッセイを読みつつ、あちこち響いた。この、私にも覚えがある「女らしくない自分」を笑ってごまかす自分の話。私と絲山さんて同じ歳(というか学年では私の方が確か1つ上)なのだけど、私もサラリーマン時代はものすごい勢いで仕事をし、バリバリのワーキング・ウーマンだった。朝は絶対に遅刻せず、夜はしかしながら遅くまで働いた。仕事中に可愛い服を着るとか、とんでもなかった。そして社内においては、本当にひどい態度だった。「なんであの親父は働かないのに給料もらってんだろ」とか、自分以外のほとんどすべての人をバカにしていた。自分は男っぽく、かっこうも女らしくないし、化粧もしてないけど、誰よりも頑張っていてかつ仕事ができる(ほんとか?!)という自負があり、トゲトゲしていた。サラリーマンは会社を転々としながらも10年くらいやったが、最初と最後に努めた会社以外の会社に対しては常にツンケンしており、心の中で自分以外の全員をばかにしていた。

でも業務や仕事に対して嘘をついたことはない。これは絶対だ。社外に自分の味方はたくさんいて、常に応援してもらっていた。男性と同じフィールドに立って、いわゆる外周りの営業をこなすことはとても誇らしく思っていた。そして、その反動か、女らしくするのは時間の無駄と思ってたし、気持ち悪いとさえも思いこんでいた。私たちの世代の、男と同じ仕事する女は、そういうものなのかもしれない。私たちより下の世代だと、もっとスマートというかナチュラルで自然体に男性社会にとけこんでいるようなところもある。でも私たちの世代は違った。女であることに無頓着でいることで、女っぽくない自分を肯定しているんだという感覚もあった。なんなんだろうね。あれ。

だから、絲山さんも同じような気持ちで「男っぽい自分を笑い、笑うことで自分は許されるんだと思ってきた」というのを読んで、ずしーーーんと来た。「いったい誰に許されるというんだろう」という一文にどきっと。そうだ、私もそうやって生きてきたんだ。なんかそういうことも思い出した。

でも絲山さんも書いているように「若いころに戻りたい」とは私も思わない。そして、絲山さんのいう、今現在の「おばちゃん」というジャンルに身を置くことについては、まさに共感!! 共感!! 共感!! 「おばちゃん」と呼ばれるこのジャンル、めっちゃ自分にとって居心地がいい。多少の男っぽさや雑な性格も許される、この開放感。そして自分を許すと他人も許せる。だから「おばちゃん」になると幸せ度が増すのかもね。うん、いいぞ!!

そんなふうに自分のそんなことに置き換えて読みながらうなずいたりしていた。このことばかりではなく、双極性障害はいろいろあるのだろうと想像するが、障害とあえて呼ばなくても、大なり小なりこういう傾向は絶対に誰にでもある。

あと興味深かったのは、タバコだよね。タバコを止める話。絲山さんもある日突然、きっぱりやめたんだって。っていうか「やめる」ってのも、なんか言い方が違う、とご本人はこのエッセイにも書いているんだけど…

山口洋が以前、やはり禁煙のきっかけについて、「(山の頂上で)もういいだろ、って声が聞こえた」みたいなことを日記に書いていたけど(これ、これ!)、ヘヴィな喫煙者が止めるのって、そういうパターンが多いような気がする。

他には、私のリアルな知り合いの中には、グレン・ティルブルックがあげられる。グレンは本当によくタバコを吸った。だけどある日突然やめた。どうやってやめたの?と聞いたら、とあるロンドンの「洗脳系」?のセラピストに会ったらこれが適面に効いてキッパリ辞められたのだそうだ。それはグレンいわくヘッドフォンをつけさせられ、ニューエイジみたいな音楽が流れ、「あなたはもうタバコを吸わない」みたいなナレーションが流れてきたのだそうで、あまりのバカバカしさにグレンは大爆笑してたんだって。でも本当にセラピーが終わったあと、まったく吸いたくなくなったんだって。笑えませんか? グレンが暗示にかかりやすいタイプなのか、それともあまりにバカバカしくてやめられたのかは謎(笑)

…話がそれた。こういう話を書きたがるのも「おばちゃん」の傾向である。先日も友人と会って話していてとても楽しかったのだけど、結果ミーティングノートを見たら、何一つそのミーティングで決まったことがないってのに呆然とした。… 笑える。単に私たちはぐるぐると自分の頭に思い浮かぶ話していただけだったのか…呆然。録音して聴いてみたかった(爆) これ「おばちゃん」の傾向かもしれない。

でも本当にこの本、おすすめです。先日読んだ『小松とうさちゃん』に載ってたミズクラゲの話もそうだったけど、あそこで書かれているように、ぐいぐい荒波にさからって泳いでいくのが自分の生き方と思ってたのだけど、生き方って考え方次第なのよ、ってこと。
ゆらゆら漂って、死ぬのはアクシデント。それを心配したって意味がない、って。

もう、なんか、それでいいんじゃないかな、って思う。特にこの難しい時代には、そう思う。特に必死に生きようと、そして情報を集めようと思えば集まってしまうこの時代においては、あまりいろんなことにとらわれない方がいいのかも。

そんなことを絲山さんは伝えようとしているのかも? いや、絲山さんの場合、きっと伝えるっていうんでもないな。それをとにかく書きたかったのだと読者の私は勝手に思っている。

あ、そうだ、もう1個忘れないうちに。自分用にメモ。最後に「ハラスメントはなくならない」っていうテーマがあって、「私たちは失敗したり人を傷つけたり、逆に傷つけられたり不快に思ったりしながら、次の時代の倫理を作ることに参加しているのである」っての。この一文、すごく希望がありませんか? で、絲山作品にドローンみたいに流れてる音って、これだって気がついた。これなのだ。だから、絲山さんの小説は読後が気持ちいいのかもと勝手に思った。そんな風に、自分の中で、絲山さんの普段の小説と、このエッセイが妙にがっちり繋がっていくのであった。

あぁ、もうっっっ(笑) いやぁ、読者は、絲山さんのこういう言葉がほしいんだろうな。ご本人おそらく全然意識されてないんだろうけど。やっぱ絲山さん、最高。