1996年のメアリー・ブラック



なっつかしーーー メアリー・ブラック1996年のライブ。ドイツのTV番組で放送されたものらしい。

セットリストは
Soul Sister Adam At The Window Wonder Child All That Hammering インタビューを挟み Past The Point Of Rescue No Frontiers Summer Sent You Carolina Rua A Women's Heart Ellis Island

日本にもこのメンバーで来日したっけ。このあと交通事故で急死してしまったデイヴ・アーリー(シャーデーや、ヴァン・モリソンのバンドでも活躍した人でした)も元気そうに映っている。今、ギルバート・オサリバンやレイ・ディヴィスの片腕として活躍しているビル・シャンリーもいる。みんな若い! ビルなんてほんとめちゃくちゃ若かったと思う。

ちょうど「The Circus」というアルバムを出したばかりのメアリーは、長い間一緒にやってきたデクラン・シノットがバンドを離れたばかりだった。そんな状態で彼女も超不安だったに違いないのに、わたしはひどいことにメアリー本人やジョー(マネージャーで旦那様)「なんでそんな若いギタリスト入れるんだ」と言ったような記憶がある。とほほ… 今、思えばなんてひどいこと言ったんだろう。確かにベテランで、元ムーヴィング・ハーツのデクランが離れてバンドから音のシャープさは多少失われたかもしれない。でも彼らは続けていくのに必死だった。そもそもダブリンって100万人都市で、東京みたいに人材がたくさんいる場所とは訳が違う。新入りのビルだってたいへんだったろうに… どうしてもっと励ますような言葉をかけてあげられなかったかねぇ。猛反省。まぁ、でもそうやって、わたしもいろいろ学んできたのよね。周りの人を傷つけながら。自分も傷つけられながら。ミュージシャンとかアーティストとか表現者って、そういうところ理解して気持ちに寄り添っていかないと、一緒に良い仕事なんて絶対にできない。 でもわたしはわたしでこのアルバムのためにそれこそ必死で働いた。今の何十倍も必死で、まじで売ろうと思ってた。必死だったから、完璧なライブをやってほしいと言う気持ちは人一倍あったのは間違いない。そういう必死な気持ちをメアリーたちや、周りで応援してくれてた音楽メディアの皆さんにも理解してもらっており、それに甘えていたということはある。

その後、ビルは、ダブリンの郊外に家をたてて、わたしはそこに一部屋借りたりしていた時期もある。5、6年借りてたかな。もっとも借りた時、年間60日アイルランド滞在を目指していたのに、それはまったく達成されず、毎月家賃を払うばかりだったんだよね。でもビルには世話になったし、東京でアイルランドの家の鍵を持っているというのは気分が良かった。あそこにわたしの拠点がある、とおもえるのはよかった。

ドラマーのデイヴ・アーリーがバンドメンバーになったのは、確かロンドン在住のメアリーを配給していたGrapevineというレコ社パディ・プレンダガストの推薦で、メアリーのバンドにはパーカッションではなくドラマーを入れた方がいいという彼の意見に導かれてのこととだったと記憶している。

パディはもともとCDの製造の方で成功した人で、当時メアリーのワールドワイドなマネジメントを一時的に引き受けてもいた。でもなんつーか、車は名前も知らないけど高級車だし、飛行機もファーストクラスで飛んじゃう人で、ちょっと価値観違うんじゃないのって感じだった。スーツもなんかかっこいい服着てて、わたしたちとはまるで違うノリではあった。まぁ、実際相当なお金持ちだったんだろうな、と想像する。で、案の定、割と早々にレコ会社はつぶれてしまい、離婚もして、今はたしかハワイだったかな…グアムだったかな、南国のそんな場所にいるらしい。fbで再会して、なんかよくわからないダンスミュージック売り込まれたけど…。まぁ、もう一緒に仕事をすることはないだろうけど、今だにアイルランド界隈の私のタイムラインに登場してくる。

彼はジョン・レノンを小綺麗にしたみたいなルックスでハンサムな人で、いつぞや彼のロンドンのオフィスに遊びにいったらパブに連れてってくれて、当時の私なんて気の利いた会話もできなかっただろうけど、相手してくれて、すごく嬉しかったことを記憶している。しかし仕事相手としては良い印象はない。当時、彼の会社はシャロン・シャノンのCDの権利も持ってて、わたしはシャロンの初来日のために日本版のコンピレーション組んでベストとして出そうと日本の某メジャーレコード会社に売り込んだのだけど、その交渉がまったく進まなくて超イライラしたんだよね。しかも交渉のテーブルについていた当時のパディのビジネスパートナーのスティーブが超いやなやつで、社長であるパディもちゃんとこちらを援護してくれるわけでもなく他人事な態度で、本当にがっかりしたんだ。あれからわたしは本当にGrapevineから距離を置くようになった。その後、スティーブとパディはうちわで大喧嘩して、会社の業績も悪く空中分解。どっちも業界からは消えてしまったのだ。

というわけで、今、生き残ったわたしは、そんな当時のことを書いて、恨みをはらしているわけです。はははは… わたしも若くて熱血だったからなぁー そういう理不尽が許せなくてね。おそらくなんかこちらにはいえないいろんな事情があるのだろうみたいな優しい気持ちには絶対になれなかった。当時の日本のマーケットでは海外のアーティストをプロモーションしていくにあたりCDが出ていることは必須条件だったし。もっとも、事情があるならあるできちんとそれをこちらに伝え交渉に向かい合わない彼らの方が絶対に悪いとは今でも思っているけど。

まぁ、それにしてもいろいろあった。1996年かぁ…  本当に当時の自分は必死だったよなぁ。

この映像の途中に挟まれるインタビューで「日本にもアイルランド人がいるのよ!」なんて言ってるのが笑える。懐かしいなぁ。まだ表参道のパディズデイのパレードも始まったばかりだったし、アイリッシュパブもまだたくさん都内にはなかった。あの頃の仲間も、ちゃんとした人たちは、今も元気で第一線で活躍している。もちろん消えていった人もすごく多いけど。

あ、過去を振り返って懐かしがってばっかりじゃダメですよね。前をむいていきましょう、前をむいて(笑)。いろいろ仕込んでますよ、未来の企画。今はまだ皆さんに発表できる段階じゃないけれど、明日のためのりんごの種はまいておかないとね。

メアリー・ブラックのCDは、こちらで販売しています

PS
今村先生は、わたしが実際お世話になってる大病院の感染症専門の先生で、Twitterで前向きな発言をされていて素敵なのだが、昨日ご紹介してたらした記事には妙に納得できるものがあった。なぜPCR検査が進まないのか等々、とてもわかりやすい記事。