ラティーナさん、ありがとう、お世話になってる媒体の皆さん、ありがとう


ラティーナさん、紙の誌面では最後ということで、昨晩は最終号をすみからすみまでなめるように読んでしまった。「中南米音楽」時代からの同人誌マインドを失わないでいた雑誌。この音楽誌の長く素晴らしい歴史を改めて知り、他の音楽雑誌が基本的に広告がベースになっているのとは、そもそも成り立ちが違うのだなと感慨深く思う。

そのラティーナ最終号に私が大尊敬するリスペクトレコードの代表:高橋研一さんが登場していた。私たち音楽をプロモーションする側の代表として、この素晴らしい雑誌にコラムを寄せていらしている。そこをもう食い入るように読んでしまった。

そう、高橋さんが書いていらっしゃるとおり。ウチも! ウチもですよ、ほんと。ウチもラティーナさんから広告の要求をされたことは一度もない。

音楽雑誌が基本広告ベースなのは… というか市場に流通しているほとんどすべての雑誌が広告ベースなのは今や誰でも知っている事実だ。ウチは本当にその点恵まれていて、広告を出さないのに、来日時のインタビュー記事やら告知記事やなにやらを「良い音楽だから」という理由だけで載せていただいている。こちらが女一人で細々とやっていることに関する同情もあったのかもしれない。だけど本当に載せてくださっている媒体さんには、いつもずうずうしくプロモーションに行く私を受けとめていただき、本当に本当に感謝している。

特にラティーナさんは、いつだってプロモーターの熱意を思い計ってくださっていた。それを当たり前と思ったらバチがあたる。

ただ一度だけ。ずいぶん前に1度だけロリーナ・マッケニットのところのロンドン事務所からキャロライン・ラベル(チェロ)のプロモーションを依頼され、予算まで用意してもらったことがあった。雑誌展開をいくつか作ってほしいと言われたので、私は迷わずラティーナさんに広告を出し、インタビュー記事(たしか五十嵐正さんが電話でやってくれた)を掲載していただいたのだ。そんな風に、ラティーナさんにお礼がちょっと出来たのは、あとにも先にもたった一回。しかもちっちゃな広告だったと思う。10万しなかったかもしれない。キャロライン・ラベル以外の、大量に掲載していただいた記事は、すべて広告も出してないのに、私がお願いしてお願いしてお願いして、無料で載せてもらったありがたい記事だった。

多くの人が書いていることなので、皆さん、ご存知だろうけど、媒体というのは読者ではなく広告で普通なりたっている。だから広告が出せれば、記事展開は間違いなくやってもらえる。商業誌なんだから、当然な仕組みですよ、誰だって生きて生活していかなくちゃいけないのだから。

ここでちょっと昔話。そういうシステムが一番顕著だった媒体は私の付き合いがあるところは、まず放送局(これについては機会があったらいろいろ書いていきたい)、そして今は亡きスイングジャーナル社で、同社のADLIB編集部さんは広告との連動が激しい雑誌として有名だった。でも本来はそういう雑誌であるADLIBさんにも私は本当にお世話になったものだった。広告を出さない私がADLIB誌でいただけるスペースはモノクロのページか小さなコラムに限られていた。でもだいたいはプロモーションしてお願いすれば、そこにたいていのものは小さくでも載せていただくことができた。本当に感謝である。そういえば、ADLIBさんには小さなコラムを書かせてもらったこともあった。あれがもしかしたら私の一番最初の物を書いた経験じゃないかな… もう記憶も記録もないけれど。

そういえばヴェーセンの初来日時にADLIBさんが1ページくださったことは絶対に忘れない。当時、編集にいらして本当にお世話になった山崎さん、お元気かしら…。そして同じく編集部にいた八田さんには、別の音楽雑誌で再会することができた。一方、松下編集長は今で言うとレコ社の女性プロモーター相手にセクハラ的な行動を取るという評判だったのだけど、私には色気がなかったことが幸いしたのか、ものすごくよくしていただいた。編集長にはfbで再会し、今もお元気そうで、そして今でも変わらずジャコパス好き(笑)で、本当に嬉しくなってしまう。少なくとも当時の私には、編集長からの下っ端プロモーターに対する応援の気持ちはしっかり伝わっていた。特にいつだったか言っていただいた「のざき〜、僕はあなたの努力はものすごく認めているんだよ」と言っていただいたことは一生忘れない。あの編集長の言葉は、今の私を支えている。ありがとう、編集長!! 編集長は忘れちゃっただろうけど、私は一生覚えています、ほんと! あぁいう経験の一つ一つが「頑張れば認めてくれる人があらわれる」という私の成功体験となっているのは間違いない。

そして左の写真はADLIB誌同様、お世話になったFMファン(共同通信社)。メアリー・ブラックが表紙となった1990年5月号。もうぼろぼろだけど一応額装してあり、今でも玄関に飾ってある。

昔はこんなふうにFMの雑誌があったんだよね。しかも4誌も。

その中でもFMファンさんには私は本当によくしてもらった。レコード会社のFM誌宣伝担当にとって、FMファンの表紙ゲットは勲章だったのだが、これを決められたことは私の人生の中でもっとも良いことの一つとして今でも自分の中に刻まれている。

はっきり覚えているが、この号の表紙を誰にするかの会議が編集部内で終わったあと、合格であれば、それを通知する電話が編集部からかかってくることになっていた。この時、対決したのは今、ミュンヘン在住の元ポリドールの高橋まりこちゃん。彼女がプロモーションしてたもう名前も忘れたやはり女性アーティスト。今、WOWOWにいらっしゃる当時ワーナー勤務だった山下浩志郎さんも並んでたかな。メアリーとそのアーティストたちとの一騎打ちだった。編集部で会議が行われているこの時間、私も会社の編成会議だかなんだか超くだらない会議のために(社長がいたのも覚えているので制作会議だったのかも)編集部からの電話を待っていることができなかった。なので、デスクの阿部ちゃん(阿部ちゃん、元気かなぁ!!)に「お願い、FMファン編集部からかかってきたら会議中でも電話つないで」と頼み、自分は会議に出席していた。(当時は携帯もメールも無かった時代です)

そしたらこちらの会議中、会議室の電話が鳴って、それは副編集長の小祝さんからだった。「決まったよ」「ついてはこれを用意してね」と言われ、当時ポジフィルムで納品していたジャケ写(ジャケット写真)とか、その締め切りとかの指示を受けたが、それらを書き留めるために書きつけたノートの文字が震えてしまい、まったく書けなかったのを覚えている。あんなに嬉しかったのはそれまで生きてきた人生(たぶん24とか、25歳くらい)の中で、一番嬉しいことだった。

そう。しかも、あれが決まった時ですら、広告の話ができないくらい、私は何もわかっていなかった。そういうのをちゃんとフォローすべきだと言う業界の常識すらなく、教えてくれる先輩もいなかった。でも編集部さんからも一度も広告の請求をされなかった。

あっ、話がものすごくそれた(笑)。でもそういうことなんです。

そんなふうに私は本当に恵まれてきた。いや、甘えてきたと言っていいだろう。お願いするばっかりでご恩返しもろくすっぽできないから、いやになる。こうやってお世話になった雑誌が終わるのをただ見ているしかない。本当に本当に申し訳なく、そしてありがたく思っている。

雑誌のたいへんな立場もいろいろだろうと想像する。一番やっちゃいけないのは読者を裏切る行為だよね。こんなに読者に対して誠実なラティーナさんが紙の媒体を辞めるのに、これはもうあきらかに読者を裏切っているだろうという雑誌がまだのうのうと生き残っているのをみると、なんか悲しくなる。ロックやポップスの世界でそれはものすごく顕著で、どことははっきり書かないが某ロック雑誌なんか見てて痛いくらいだ。そこまでして雑誌を出したいのだろうが、もう意味がよくわからない。が、ラティーナさんは絶対に読者を裏切るような音楽は紹介していなかった。最後まで誠実で素晴らしい雑誌だった。

それにしても何度も書くけど、本当にお世話になった。何度感謝の言葉をつたえても足りないくらいだ。そしてまた言うけど、私が恩返しする前に、紙の媒体は終わってしまった。ラティーナさんがweb版になって、私の事業に余裕が出来たら、必ずラティーナさんに一番最初に広告を出そう。

そんな風に荒川土手で風に吹かれながら、考えたのであった。それをここに今日書いておく。