先日とある作曲家のHさんとチャットしていて、偏見や差別の話題になった。まぁ難しいサブジェクトではあるのだが、本当にHさん、心を痛めていて……なんとか気の利いた言葉をかけてあげたいと思いつつも、私もまったく言葉が出てこないのだった。
さすがニューヨーク!
Hさんいわく「昔はいろんな人の意見があるよねと、ある程度までは我慢してきたが、それももう最近は辞めたんです」と言っていた。「そこからはもう友達ができない」と苦笑いも。確かに今回のBlackLivesMatterの世界的な動きを見ていると、そういうことが、なんかもう、すべて臨界点に達した感はある。我慢の限界に来た、というか。
私もいつだったか、某友人との飲み会で、とある国の人たちを揶揄する発言を友人がした時、その人に対する自分の見方がぐるりと変わってしまった。そしてそれはもう二度と元には戻らなかった。彼には仕事上でも世話になったし、普段は素朴ないい人で、本人にまったく悪気はなかったと思う。もちろん、飲み会でのなんとなくの酔っぱらった上での発言だったのだ。が、その彼のひと言が、なんというか引き返せないところまで行ってしまったというか…。そこできちんと反対意見を言うまでもなく、場を濁さないようにしている自分に対しても私はいやになった。
話をHさんとの会話に戻すと、私もHさんとチャットしていて、妙に鮮やかに思い出した、とある「思い」があるので、そのことを忘れないように今日はここに書いておこうと思う。私が幸せ者なのは、普段はこういうことはまったく忘れてるとことだ。本当にHさんと話すまで、まったく忘れていたが、そうだ、こういうことがあったな、日本で…とすごく鮮やかに思い出したからだ。
今回のBlackLivesMatterの件で「日本は単一民族だから差別や偏見は関係ない」ということを、この後におよんで信じている人が多いので、それについて一言自分の意見を言いたいと思い、今日はそれを書いておく。
それはこんな話だ。
私は中学の時は比較的勉強もできたこともあってそれなりに学生生活を楽しんでいた。今で言うスクールカーストみたいなものが存在していたとしたら(存在していたと思う)、自分はクラスの上位カーストに属しており、中学の時はそれなりに勉強もできたので、クラスの中ではそれなりに人気ものだと思ってきた。
が、高校に入ってしばらくたつと、どうも自分は男性にはもてないのだなというのを強く認識するようになる。見た目があかぬけなく、地味で、さらに外見に気を使うことを嫌った私は、なんとなくクラスの男性陣が自分に対して距離を置くのを感じとっていた。もっとも昔からのポジティブな一匹狼体質で、それが問題だとも思わなかったし、それは返ってかっこいいことと思い、そのまま時間をやりすごしていた。
大学に入ってからは、40名くらいいるクラスの中で、女は4人だか6人だかしかいない、そういう環境だったが、そこでもやっぱりチヤホヤされてたのは綺麗でお洒落な女の子たち。自分はそういう女たちとは違うという自覚はあった。でもボーイフレンドも普通にいたし、特にそれを引目に思ったりはしていなかった。ただクラスの中ではなんとなく浮いていたとは思う。一方サークル活動においてはTOP40愛好会という(東大あたりでいうとビルボード研みたいもの)洋楽愛好会に入っており、そこでの友達はみんな本当にオープンでどんなキャラクターの人とも分け隔てなく付き合ってくれていたので、すごく楽しい大学時代をすごした。今でも大学時代を思い出す時、TOP40の連中と楽しくしゃべっていたことしか思い出せないくらいだ。
だけど、私も馬鹿ではないので、やっぱり自分でも強く認識していた。日本の男性の、見た目があまりよくない女に対する偏見や眼差しを。だから、19歳で初めて外国(英国)に行って、外国の友人もできた時、私はそこで強く感じたのだ。「そうか、外国にはルックスによる偏見はないんだ(←ちょっとおめでたい)」「ちゃんと私を一人の人間として見てくれてるんだ」と。
その気持ち、ものすごく鮮やかに記憶しているので、ここに忘れないように書いておきたい。
思えば大学2年の夏の初めての海外。3週間ほどの英語研修でのことだった。いわゆる安易なサマースクール、語学研修だ。お金を払えば誰でも参加できる。場所は偉そうにもケンブリッジだった。そこで私は自分が英語がほとんどしゃべれず、かつ19にもなって自分の意見を自信を持って話せないことを非常に恥ずかしく思った。同じく英語を習いにきている他のヨーロッパ人や、それほど数は多くなかったが他のアジア人たちは皆、下手くそな英語をまくしたて、それでも自分の意見をはっきり主張することができる。あれは大きな「カルチャーショック」だった。日本人は筆記テストの成績が良いので、入校時のクラス分けテストで妙に上のクラスに入れられてしまうのだが、とにかくしゃべれない。というか、それ以前に万が一言葉ができたとしても自分の意見を人に言えない。というか、自分の意見がない。
80年代の半ばだ。バブル経済で景気がよかったころ。80年代半ばは日本人の観光客が、偏見と白い目で見られていた時代だった。日本人観光客はみんな団体でつるみ、その多くがメガネをかけてカメラを首からぶら下げていると認識されていた。ケンブリッジみたいな保守的な街に住む地元民はたまったもんじゃなかっただろう。夏になるとあふれる日本人語学研修生。我者顔で街を自転車で走り抜ける。私もある日、自転車に乗って走っていたらすれ違いざまに「バナナ!」と怒鳴られたことがあったが、後にも先にもそういうことはこの1回だけで、基本的に私は、海外、特に個人を重んじるイギリスにいることに日本にいる時以上の居心地の良さを感じていた。そして思ったのだ。「そうか、ここは海外だから日本みたいに垢抜けない女にたいする偏見がないんだ」「それよりもどんな人物か、どんな面白いことをやっている人間かということの方が大事なんだ」と。
まぁ、でも英語も下手くそだったので、微妙な会話のニュアンスを聞き逃していた可能性は多いにある。でも英語を習いに来ていたスペイン人やイタリア人、フランス人に地元英国人もみんな女性に対してはわけへだてなく、女性にはみんなレディファーストの態度で接してくれた。なんで海外だとこんなにのびのびできるんだろう、と私は思った。
だから日本にも根強い偏見や差別はあると、今さらながら強調しておこう。というか、日本は偏見と差別だらけだと言っておこう。そうだ、Hさんと話してたら、それを思い出した。海外に出た時に最初に思ったことは、それだったじゃないか、と。私はラッキーにも仕事上ではあまり差別を感じたことがなかったから、そんな気持ちを公言していた。でも違うじゃないか。自分も嫌だったじゃないか。
そして今でも何かというと「美くしすぎる代議士」「綺麗すぎるな医者」とか、ルックスによる差別がものすごいのはここ日本じゃないか。きれいな包装紙や外箱にばかりお金をかけ、見た目を繕い、中身がすっからかんなのに、それを良しとする。それが日本なのだ、と。
今でこそ高校時代の自分がもてなかったのは、どちらかというとルックスよりも、そういう暗い視線やひねくれた性格のせいだと理解もできる。さすがに大人になれば、中身で勝負できる場が大きくなり…というか、自然と自分もそういう偏見がある人たちはさけて選べるような身分になり、環境がよくなり、綺麗な子がパーティや集会でもてるのを見たところで、どうと思うことすらなくなった(これはこれで問題であるが)。それに綺麗といっても、みんなたたずまいが綺麗というだけで、本当の美人なんて滅多にいない(というも偏見だが)。特に仕事で自信をつけるようになってからは、しっかり人の目をみて話せるようになったし、とっくにそんなことを卑屈に思うことはなくなったのだが(だから実際自分でも忘れていた)、今でも、万が一社会に出ても自由に自分で付き合う人間を選べるような環境じゃないところにしかいれなかったら、そういう偏見に今だに悩まされていた可能性は高い。本当に自分はラッキーだった。
一方で女の人でもルックスうんぬんいう人もいる。というか、女の人の方が多いかもしれない。ま、でもその辺はまた別の機会に。ま、でも私も私で反省すべきところは多い。ビル・カニンガムのドキュメンタリーやヴォーグのアナ編集長のインタビューはいつも本当に刺激的だし、せめて身なりくらいはきちんと整えることが会う相手に対する礼儀なんだよ、と自分を説得したり。…でも面倒くさいんだよね。あーーー ダメだな、こんなんじゃ(笑)と、いいつつ真剣にやっぱり考えていない。だからいつまでたっても治らない。とはいえもう54歳なんだし、いつまでもユニクロや無印着てないで、ちゃんとした店に行き、スタイリストさんに2、3パターンちゃんと服を選んでもらえばだいぶ良くなるとは思うんだけどなぁ。毎日人に会うわけじゃなし。…とはいえ、この歳までこれできちゃったからには、もうダメだな。きっともう治らない。
さて、Hさんとの会話。Hさんは、友達の偏見や、また友達のそういった言動が許せない自分に自己嫌悪という悪循環に陥っていた。なので、最後は「そういう気持ちはもうHさんの場合、音楽に昇華させるしかないですよ」とか言う、ある意味しょうもない言葉で終わったのだが、どうも落ちが悪い。 そんなことは頭ではわかっているが、私たちが苦しいこと、煮え切らないことに変わりはない。
本当に生きているというのは矛盾だらけだし、辛いことばかりだ。誰も納得して生きている人なんていないんじゃないか。結局のところそれをなんとかごまかしながら、自分の機嫌をなだめつつ、時間がたつのをひたすら待つしかないのだろうかと思う。死ぬまでは。
さて、Hさんが教えてくれた素晴らしい女性。信念の人。忘れないように、ここに貼っておく。信念の人はかっこいいね。もうそれだけで美しいよ。
「青い目、茶色い目」50年前の差別実験、“目の色が起こした嵐”が再び話題に https://t.co/IFHB7qGiiv
— 野崎洋子 (@mplantyoko) June 25, 2020
PS これも忘れたくない内容。自分用にメモ!LIVE: Black Lives Matter mural is being painted on 5th Ave. in New York City in front of Trump Tower. https://t.co/JgT4p6DK4e
— MSNBC (@MSNBC) July 9, 2020
「特権とは、そのことを考えるか考えないかの選択肢を持っていること。私は、自分が女であることを忘れることができないが、自分が白人であるということを忘れることができる。それが白人であるということだ」(「何が問題なのかわからない白人の友人たちへ」ヴィルジニー・デパント)『#世界』8月号 pic.twitter.com/cIhfhTBFCo
— 岩波書店『世界』編集部 (@WEB_SEKAI) July 12, 2020