「バンドにエイド」アーティスト紹介:ポール・ブレイディ

今日のブログはポールかー(笑)。いったい何から書いて良いのやら…すみません、今日も長くなります。

ポールについては、このブログで一番書いているんじゃないだろうか。とにかく大好きな人。この写真は山口洋先輩が撮影してくれたのだった…  京都で、だったかな。


とにかくチャーミングな人です。多くの人に怖がられているけど、怖いことないよ。


こっちは吉祥寺。Nさんが撮ってくれたんじゃなかったっけか。


ふっるーい写真。


この日付がわからない。2002年9月4日ってこと? っつーことは18年前。ひぇーーーっっ!

本人に初めて会ったのは、それよりもさらに前。約25年くらい前かな。当時の日本のアイルランド大使(シャーキー氏)の奥様のセレブなパーチー(ラッフルで車が当たったりするタイプのやつ。みんな正装でのぞむやつ)だった。チャリティだからしょうがないのだけど会費は2万とかとても高く、それでも、私たちアイルランド音楽ファンはポール見たさに潜入をこころみたのだった。そしてパーティ会場でポールに会うことができた。メアリーのレップやってますと名刺を渡すとポールはニコリとして「彼女はいいよね」と言った。ひーーーっっ。そういや、事前にポールのレコ社(BMGだかなんだか)に電話して「オタクのアーティストが来日しますよ、ちゃんと情報つかんでますか?」と伝えるものの、向こうは興味がなく剣もほろろだったのを記憶している(笑)。そんなもんだよね、レコ社ってね。

パーティで今でも覚えているのはポールがクレイジー・ドリームスのあの有名なイントロをギター1本で再現してみせたことで、そんな当たり前のことに当時の私はふるえまくっていた。

二度目にあったのは、ロンドンのホテルで。なぜか理由は忘れたが、アルタンの連中とプランクトンの川島恵子さんたちと一緒にホテルのロビーで飲んでいた時だ。そこにポールが現れたのだ。あれっ、ポール・ブレイディだ! 私は偶然CDを持っていたので(ここがすごい)、それにサインしてもらったりした。ポールとは少し言葉を交わすことができた。「ポール・ヤングがあなたのFollow Onをカバーした時、彼もあの曲が好きだというのを知ってすごく嬉しかった」とかなんとか私は一緒賢明ゴマをすった。ゴリゴリ…。そしてポールには飲み物を一杯おごってあげた。アルタンがホスト役だったので、その場の雰囲気はとてもよく、ポールは終始ご機嫌だった。私はスーパースターにサインがもらえて鼻が高かった。そういやこのホテルのロビーにはロン・セクススミスも現れたのだった。懐かしいなー。なんか豪華なロンドンの夜だった。ホテルは3スターくらいで、たいしたことなかったけど。

ほんと誰にあっても私は特に緊張することはないのだが、ポールと会う時だけはいつも緊張する。今でもそれはあまり変わらない。次に会ったのは一緒に仕事をする…かもしれないということが決まりかけていた時だった。これには本当に本当に緊張した。だって夢がかなう、その一歩手前まで来ているのがわかったから。

それはこんな流れだ。2001年くらいの話。すでに日本での人気が定着していたアルタンはこの年「ブルー・アイドル」という素晴らしいアルバムを発表し来日が決まっていた。そこにポールをゲストでいれようと、プランクトンさんが来日を決めてくれたのだ。というのも、アルバムの1曲目がこの曲だったから。

そうそう、これこれ。絶対に絶対に聞いてみて。すごくいい曲。そして1:15くらいから出てくるマレードのお父さん役の人。それがポールなのだった。あぁ、何度聞いても鳥肌たっちゃう!!


そしてプランクトンさんでは、ポールのCDを出すレコ社を探しており、ウチが光栄にもやらせてもらえることになったのだ。CDをうちで出して、ツアーの援護射撃を行うことになった…というか、そういう日本側の体勢は整った。プランクトンさんからポール側にはすでに正式なオファーがしてあった。あとはポールのYESという返事を待つだけだった。

そういや当時ポールのマネージャーやってた女性、名前忘れちゃったけど、いい人だったなー。(と、突然思い出したりする)

で、ポールと正式にミーティングということになり、私は震え上がった。マジで緊張して前の晩は眠れなかった。そんなこと滅多に…というか、それまでなかったし…これからもないだろう…ないのだが。

とにかく責任重大だ。ここで失敗したらプランクトンさんの案件、そしてアルタンにも迷惑をかけることになってしまう。…というか、やるっきゃないとは思ってた。今、これをできるのは日本では自分しかいないのだし、これはやるっきゃないのだ、と。ビビったり、えーーっ、私なんかには無理でっすぅーもじもじ…みたいな可愛い子ぶりっ子などは絶対に許されない。ここで私が決めないとダメなんだ、と。

ポールのミーティングは郊外のホテルのラウンジで設定された。偶然にも私はその直前はアルタンのマネージャーのトム・シャーロックとの打ち合わせを入れていた。トムからポスターだのなんだのプランクトンさんに持ち帰る資料を預かり、次はポールとミーティングなんだ、どうしよう、緊張しちゃう、とか話していたら、ポールが時間を間違えたんだかホテルのロビーにえらく早めにあらわれた。でもそこにいたトムがものすごく素敵に紹介してくれたので、私はちょっと安心した。すぐにこやかにマネージャーさんも登場し、三人でにこやかにミーティングは進んだ。確かワールドカップがうんぬんという時期だったかなんだかで、フットボールのファンであるというポールに向けてマスコット人形みたいなのをお土産で持っていったら「うん、ピンクのは女の子だ」とポールがマネージャーさんに一つあげていたのを思い出す。そして「アメリカのCompass Recordsのうんぬん」みたいな話にもなり「へぇー(この小娘は)GarryやAlisonも知ってるのか」とポールは感心した様子だった。Compassがたいしたレコード会社だとは今でも思わないが、ここでコンパス・カードが切れたのはありがたい、私は心の中でガッツポーズをした。というか、切れるカードは全部総動員した。もちろんメアリーと長くやっていることも強調しておいた。

とにかく初めてちゃんと会ったポールは怖いことはなく、始終ニコニコしてていい感じだった。そして最後に(その時点で、おそらくプランクトンさんに返事を早くしろと大プッシュされていた)マネージャーさんが「じゃあ、日本には行くことに決めたのね?」とポールをうながした。そしたらポールは「うん」と答えた。私と女性マネージャーさんは目をあわえてうなずいた。「聞いたわよ」と。ミーティングが終わって私は長いながーーーーいファックスを東京にいるプランクトンの川島社長あて書いて送った。そのファックスは今でも取ってある(爆)

で、肝心のCDについて。ポールはすでにメジャーを離れ自身の『Welcome Here』時代のライヴアルバムを出すことになっていた。これをうちでもリリースしようということになったのだが、交渉したCDの金額はおそろしく高く、いくら売っても全然ペイしないのだが、ポール相手にごちゃごちゃ交渉する気にもなれず、そのままゴーすることにした。(そのCDの在庫はまだありまーす。ってことは本当に大赤字企画だったんだね。Very proud of myself!! )

それにしても、ポールてこういうビック・プロダクションで歌うのも似合うのよね。これなんか大好き。このアニメーションはカートゥーンサルーンに間違いない。

Óró Sé do Bheatha 'Bhaile from Roxanne Burchartz on Vimeo.

そうそう、ポールはマシュー・バーニー(元ビョークの旦那さんで映画監督)の『クレマスター』シリーズにも出たことがあるのよ。ここに写真があるんだけど、とてもポールには見えない。ポールのお母さんもこれがポールだってわからなかったそう。このポール登場のシーンを見るためだけに私はマシュー・バーニーのアートフィルム(5時間くらいあったと思う)を見に恵比寿に行ったのだった。

ポール・ブレイディはアイルランド伝統音楽のレジェンドだとされている。経歴をざっと説明すると北アイルランドの共和国とのボーダーの街ストラバーンで生まれ、お父さんもお母さんも教員という家庭に育った。お母さんはすごく厳しい人で本来なら校長までいけたんじゃないかというキャリア志向の人。お父さんはおおらかで歌も上手く地元で俳優みたいなこともやっていたらしい。二人がボーダーのストラバーンという街を選んだのは二人とも南、北それぞれの教員免許を取得していたから。両方の学校に通える場所に家庭をかまえる必要があったから。

ポールはドニゴールの親戚の家に夏の間帰省し、そこで伝統音楽に触れることもたくさんあったようだが、ティーンエイジャーの彼を音楽へと突き動かしたのはソウル・ミュージックだったし、アメリカのロックミュージックだった。教員家庭のおぼっちゃまということで、ポールは寄宿舎制のおぼっちゃま校に入学する。複雑で多感な年齢に両親のもとを離れるという難しさ、そしてそこでは壮絶ないじめにもあう。その話はテレビのドキュメンタリーにもなっている。

で、おぼっちゃまの行きつく先は大学。当時大学に進める人はそれほど多くはない。ここでベルファーストのクイーンズか、ダブリンのトリニティかというチョイスになり(ほんとおぼっちゃまだよな)、ポールはダブリンを選択したのだという。これがこのあとの彼の人生にとても大きく作用した。すでにギターを引き始めて歌いはじめていたポールはカレッジのロックバンドに入り才能を発揮しだす。そしてチーフタンズのショーン・ケーンの弟さんに連れられて行ったアイリッシュのセッションでアイルランド音楽と出会うのだ。そうこうしているうちにジョンストンズに誘われイングランドをツアーしアメリカに渡り、プランクシティに誘われ… 以下はHistory! 名作『Andy Irvine Paul Brady』そして『Welcome Here Kind Stranger』と大変な傑作をリリースする。

そのポールがポピュラー界に入ったのは、ジェリー・ラファティーの大ヒット「ベイカーストリート」がきっかけだったんだって。ハンブルパイのあいつにできるんだったら、オレでもできるんじゃないかと気持ちを決めたポールはダイアーストレイツの事務所に入り、ファーストアルバム『Hard Station』をリリースする。


そしてアルバムを出していくうちに、いろんなアーティストがポールの曲を歌いたいと言い出すようになる。ちなみに現在も住んでいるポールの豪邸はティナ・ターナーの「プライベート・ダンサー」に曲が採用されたことで建てた…かどうかは不明だけど、きっとそうじゃないかと思う。全世界であれだけ売れたアルバムだもの、きっとすごいな。

ちなみにティナ・ターナーの話をすると当時ポールはもちろんアイク&ティナの大ファンだったので、「おおっ、あのティナがオレの歌を歌ってくれる!」とはしゃいだものの、それが何かを世の中を起こすとは夢にも思っていなかったそうだ。それが彼女の超スーパー復活劇になり「プライベート・ダンサー」は売れに売れた。

ちなみに「バンドにエイド」の企画をポールのマネージャーに話す時、こんな金額じゃロック・スターの豪邸の庭の1ヶ月の庭師のギャラにもならないだろうけど、と断りを入れてメールしたよ(笑)。とにかくソングライターはアイルランドの場合、免税にもなっているので、ポールはお金持ちなのは間違いない。うちのアーティストの自宅はいろいろ訪ねたが、一番大きいのがウーロフ・ヨハンソンの家で(増築に増築を重ねてすごいことになっている)、一番豪華なのはやっぱりポールの家だ。

ポールの家は、どのくらい豪邸かというと、Google Mapなどで空から見ると周りの家の20〜30倍くらいの面積があり、屋上に設置されたホットバスまで確認することができるくらいなのであった。

私も何度かお邪魔したのだが、最初に印象に残ったのは奥様のメアリーがちゃんとお茶っぱ&ティーポットそしてカップ&ソーサーで紅茶をいれてくれたこと。(ティーバック&マグではない)そして『Welcome Here...』のジャケットになったあの原画の本物をみせてもらったこと。まぁ、次に行った時は、すでに私もお客様扱いされず、ポール以外は誰も家にいなかったこともあって台所でたったままポールがティーバックの紅茶を入れてくれたのであるが。

で、言われた。「なんだお前は紅茶に牛乳はいれないのか。そんなの飲んで熱くないのか?」と。そうかミルクには紅茶を適正温度に下げる役割があるとアイルランド人は考えているのだな、とその時学んだ。あ、紅茶といえば、ポールは私が知っている中で唯一紅茶をback and forthでかき混ぜる人。普通は紅茶をぐるぐるかき混ぜてしまうのだ、それではお育ちがバレるのだ。正しいのはback and forth。こちらが参考映像

「ロックスター」とか言ってポールをからかうと、アイリッシュだから「スター」じゃない「しゅたー Shtar だ」と言って照れたりしてる。アイリッシュは「ス」じゃなくて「シュ」って言う癖がある。「Starbucks」=「シュタバーックシュ」、みたいな(笑) だから何かというと「シュター」って言ってからかう。そのジョークがいつ始まったかというと、二人で表参道を散歩している時だった。ポールは歩くのが大好きで、よく東京でも散歩をする。そのツアーの時は渋谷に泊まっていたポールは「イッセイミヤキー」と「ヨージヤマモト」が見たいというので私たちはさっそく表参道に繰り出した。そこから246を歩いている時に、奥様のメアリーが買いもの好きで…という話題になるので「メアリーは何を買うのが好きなの?」と聞いたら「靴をよく買ってる」というので「それはプロパーなロックスターの妻だ」と言ったら、ポールが笑って「アイリッシュだからスターじゃないよ。シュターだ、シュター!(笑)」と言ったのだった。そこからなんか二人の間で「シュター」ってのが流行りだして、今にいたっている。なんかそういう会話ががすごくいいんだ、ポールって。

いつだったかポールの英国ツアーを訪ねた時、ホテルのロビーで打ちあがっていたわたしたちのそばにちょっと挙動不審なファンの人がやってきてポールにサインを求めた。ポールは結構不機嫌な感じでサインをし、その男性はすぐ行ってしまったのだが、この日のポールはひどく機嫌が悪く、ポールったらそのファンの人のさっていく後ろ姿をながめながら「なんだ、あいつは!きっと毎晩誰かにサインもらっているに違いない」とか可愛くないことを言うので、「何言ってんの、サインをするのはシュターの仕事のひとつでしょ」とか私が言ったらポールは爆笑し、場が一気になごんだのだった。やっぱりちょっとしたユーモアは世界を救う。ポールがイライラしていると、周りの人間は気をつかってすごくオロオロしてポールを怖がっちゃう。そんなみんなの態度によってポールはまた傷ついちゃうんだよね。なんか悪循環。だから怒られても怯まない人がポールの側にいられるんだと思う。現在のマネージャーのジョン・マニスも、大親友のアルタンのキーラン・トゥーリッシュもポールがイライラしても絶対に態度を変えない人だ。そういうのを私は二人に学んだ。トゥーリッシュとは東京のポールの楽屋前でもヒーコラしたよな。最初の来日の時は、本当にアルタンが一緒でよかったと思ったよ。あれでだいぶ助かった。

こちらの映像ではドーナル・ラニーとのデュオで「Nothing but the same old story」を歌う。この曲を歌う時のポールは俳優みたいだ。歌の主人公を演じているよね。かっこいい… 

 

素顔のポールは本当に素敵な人で、よく怖がられているし、実際怖いけど、私は本当に素敵な人だといつも思っている。プランクトンの川島さんが「純情ポール」って言ったことがあるのだけど、それはすごくポールの性格を言い当てている。

そういや昔ポールをタワーレコードの渋谷に連れていったことがあった。もちろん店には事前に電話をかけて「本人連れて行くんで、申し訳ないですが曲をかけておいてもらえますか?」と頼んでおいたのだ。ポールはものすごく喜んで店内で動画撮影もしたりしていた。その曲を書いた共作者に送ってあげるんだ、とも言ってた。

で、その日、渋谷の春秋という割とおしゃれな居酒屋のカウンターで白ワインをかましながらポールと私はご飯を食べていた。そこでポールが「今日、タワーで自分の曲がかかっていたのは嬉しかったなぁ。That was too good。だけど、あれはもしかしてお前が仕込んだのか?」と聞いてきた。私はびっくりして、あらっっ、この人本気にしちゃったんだ…とちょっと驚いた。普通、そういうことをしかけてもだいたいミュージシャン連中は「お前しこんだろ」という感じで、喜びながらもこっちに目配せてくるのが通常だからだ。私は…そのままNoと言い通せばよかったのだが、元来嘘をつけない性格ということもあり、そのまま「私が仕込んだ」と言ってしまった。今でも嘘を突き通せばよかったのかと時々思い出す。ポールもポールでI was too イノセントなんて苦笑いしてたけどね。ポール。なんて素敵なんだろう…

かと思えば、ほんとに言いたいことを言ってる人でもある。前回の来日、東京での公演はコットンクラブさんでやらせていただいた。コットンクラブの楽屋はいつも若くて綺麗で英語の上手なアテンドさんが面倒をみてくれる。2日間の公演だったのだが、初日には二人の若くて可愛くて親切な女性があれこれと面倒をみてくれた。それにいたく感動したポールは「女の子たちにお礼がしたいなぁー、何がいいかなぁー」とかめっちゃ嬉しそうに言うので「CDにサインでもしてあげればー?」と私が素っ気なく応えるとポールは「いや、それじゃダメだ」という。私はよくよく考えて「じゃあ高っかーいチョコレートをちょびっと、ってのがいいんじゃない? ゴディバとかさ」とか言ったら「それはいい!」と言う。まったく見えっ張りのカッコつけやろうめ!!と心の中で思ったのだが、文句を言いながらも私はそれをデパ地下で2つ準備してあげたのだった。ところが2日目の公演では、アテンドの女性は一人に減っていた。まぁ、コットンクラブさんでは野崎もいるし大丈夫だろという判断になったんだろう。そんな風にして1つ余ったチョコレートは結局、京都の公演のあと、川っぺりで二人で座って包みを開けて食べたのだった。なんか寂しくもあるが笑える。

すべてがいい思い出である。もう一回くらい呼べることはあるんだろうか… わからない。でもポールのことなら延々と書けるな。それは私がポールを大好きで、しょっちゅうこういう思い出を思い出しているからだ。思い出は思い出さないと忘れてしまう。

「バンドにエイド」のための選曲については実は私は『Hooba Dooba』に入っているビートルズのカバーの「You Won't See Me」がすごく好きで、あれを入れようと提案したのだが、とっとと却下された。


そして逆に提案されたのは、同じ『Hooba Dooba』から私があまり好きじゃない曲だった。でもポール相手にごちゃごちゃ言ってもなと思い、それでいいっかと思っていたのだが、数日考えて、これにしない?と、最新アルバムの中で私が一番好きなこの曲を提案してみた。そしたらそれがオッケーになったのだ。

こういうポールの静かなヴォーカルも好きだ。ポールは若い時にレコ社から「シャイニーな高い歌声で歌うこと」といつも言われていたんだ、と話していた。低い声で歌っていいんだとわかったのは『Say What You Feel』を作った時だったと。それってつい最近じゃん!!!


そんなわけで「バンドにエイド」のためにポールが貸してくれたトラック「Once in a lifetime」も低めの声だけど、とても素敵なメロディで、いつか誰かがカバーするように思う。アメリカのカントリー系の人とか? またあの印税御殿にお邪魔したいなぁ。

この企画をやると決めた時、ポールは電話をかけてきてくれてFaceTimeで少し話した。いいアイディアでしょ、というと、「来週のヒットチャートの1位になるのかな」とか嫌味を言ってた。まったく言いたいこと言ってんだよね、いつも(笑)。でもポールのことが大好きだ。