はっきり言いましょう。傑作です。大傑作。
正直、久々に読む角幡さんの本は思ったよりスイスイ読めなかった。最初の方はなんだかだらだら読んでしまった。でも第5章、第6章からぐいぐい引き込まれた。そしてもうなんというか最高の結論へと到達する。これは角幡さんが新しいステージに入った、そういう作品です。
最初の方は「なぜ結婚したのですか?」という愚問に答えるために書き出した文章で、私もおそらく連載の時に一度読んでいる文章だった。そこで、角幡さんの言う「結婚は事態」というのは非常に面白いよなぁと思いながらも「はははは、あいかわらずあれこれ考える人だよなぁ、単に“一緒にいたい”とか、“これが愛なんだなぁ”じゃダメなのかなぁ」とノホホンと読んでいた。
だからわりと最初の方はだらだら読んでしまった。しかし、第4章あたりからすっかり角幡ワールドに洗脳され、私も自分の人生と照らし合わせちゃったりして、「そうか、事態か」「事態なんだ、これは」ともう最後は涙ぐみながら一気にこの本を読み終えてしまった…(笑)
私も結婚しなかったこと、子供も得なかったこと、この仕事を選んだこと、すべてが、すべてが自分の意志ではなく事態だったような気がしてくる。いや、事態だったのだろう。いやいや、自分の意志ももちろんあったと思う。が、でもやっぱり事態だったよ。今、それをやっと理解した。そんなことを思いながら、めちゃくちゃ感情移入して読んでしまった。
いや、これはすごい。角幡さん、すごいなぁ。
すみません、感動が先にでちゃいましたが、本の内容を少し紹介すると「なぜ結婚したのか」という、ある意味探検家に対して多くの人がするつまらない問いに向かうことで、角幡さんの人生の命題である「なぜ冒険をするのか」という答えにつながっていく。そういう本です。
まずは「私が違和感をおぼえる原因は、すべての事態に理性的に対処すべきだし、できるはずだと考える現代人の身のほど知らずな発送と態度にある」… ずきーーーーーん。ズキーーーーンと刺さったよ、角幡さん!!
最初の方にも名言は出てくる、新聞記者時代の「副署長が言ったのなら書ける」「うんと言わせる取材をしろ」という話からいったい「何が事実なのか」「知るとは何か」ということを考えていく角幡さん。そして「人が冒険をするとき、その冒険は事態として立ち上がり、その波にのみこまれている」という結論にいたるのだ。
「私たちは理性や合理的判断だけをよりどころに人生の局面に処しているわけではなく、その理性を超えた事態にのみこまれつつ生きている」「そして事態にのみこまれて行く先が予期不可能であるからこそ、逆にそれは人格の変化をうながし、それまでの自分を超えた新しい自分を生み出す契機となりうるのだ、と」
「自由意志など幻想にすぎず、私たちにできるのは選択だけ」→ だから中動態が滅びた。
「意志というものには責任が伴う。意志による自発性があるから、行為の責任を行為者に帰すことができる」→ これが現代社会
他に「母事実」「子事実」といった考え方や「裸の大地」といった新フレーズ、第4章で出てくる「思いつき」などもう本当にうなるしかない。
あぁ!!! 「思いつき」!!! 私も思うんだ。これ本当にそうだなぁ、って。「思いつきには私という人間の現時点におけるすべてが乗りうつっている」「この思いつきは、私という人間そのものだ」 そうなのだ、だから辞められないのだ。思いついてしまったら、もう絶対に辞められないのだ。これ、めっちゃ私の生き方と共鳴してしまう。あぁ!! 角幡さんもチェリーガラードの本から始まって、現在のグリーンランド犬ぞり活動へと、「思いついて」しまうのだった。
そしてその思いはマロリーの言葉「そこに山があるから」(「おそらくマロリーはエベレストに登頂するもっとも正当な権利があるのは自分だと感じていたはずだ」)、植村直己の最期などに対する考察へとつながっていく。
確かに植村直己のデナリ(マッキンリー)については奥さん(旧姓のざきさんという・笑)が著書で「南極に行きたくて、でもそれができなくて、アメリカ政府に自分のことを印象づけたくて焦ってしまった」と解釈されていて、私もその説を指示していたのだが、こっちの角幡さんの解釈の方が、もしかすると植村さんの本音に近いね。今ごろ天国で植村さんはそんなふうに自分の冒険を解釈してくれる角幡さんのような後輩がいて、嬉しく思っていることだろう。彼はマスコミによってチヤホヤされ神格化されすぎている。マスコミがつくりあげた姿と自分のリアルとの間で相当悩んでいたのではないかと、あれこれ私でも想像できる。そしてこの5章では、角幡さん、ついに本多勝一を超えた。なんか私もここまで来て、これだけ冒険本読んでて、やっとこの本に辿りついて、やっと理解したかもしれない。「人はなぜ冒険をするのか」を。なんというか、自分のすべてをかけて… 思いついてしまう。そうなったら、もう止められないのだ。自分の背負ってきたもの、過去のすべてがそこに向かっているのだから。
それにしても國分功一郎さんの『中動態』本。今まで読まないできちゃったけど、これはやっぱり読むべきかと思った。
あ、そうそう、意外だったのは角幡さんが「自分は長生きしたいタイプ」と言っていること。
私は今だに「つまらない人生なら生きていても疲れるだけだ」「濃く短く生きるのがいい」と思っているタイプなので、ふふふ、これはちょっと意外に思えたし、老後どうするかとか、私より10も若い角幡さんが考えているのもなかなか面白かった。ちなみに私の余生は(1)犬を飼いたい(2)犬を飼いたい(3)犬を飼いたい(4)編み物をしたい(5)犬を飼いたい…かな(爆)
そして最後はやっぱり「自由」だ。なぜか角幡さんも歳をとってから自由になったと感じることが多くなったのだという。「人生の自由というものも、事態にのみこまれ、のみこまれしているうちに自分自身が変状することで得られるものではないか」となる。
「人間的自由の根底にあるのはやはり放縦・気儘ではなく、いかに自分の生を自分で統御するかにつきる」
「事態に飲み込まれれば飲み込まれるほど人間の固有度が高まる」→これが自由につながる。これが合理的に意志的に選択していたものばかりだったら、答えの数はおどろくほど少なく、それでは人間の固有度は高まらない、と角幡さんはいう。「その未来は、平準化や一般化を免れており、その人だけのものとなる」「予定調和の生き方からズレをもたらした結婚という事態こそ、私の生の履歴の過程で生じた、私だけに固有の歴史なのである」
「人生の固有度が高まると自由になる」「人生の固有度が増すことで、人は誰でも、おのれのあかにつちかわれた内在的論理で、独自のモラルで、行動し、世の中を見ることができるようになってゆく」「生そのものが自律的にうごいてゆく」そして「人の意見が気にならなくなるし、他人が自分ことをどう見ているのかもさほど重要なことではなくなる」 → そして、これこそが「不惑」というものなのかも、とも。
「今思うと、30代までの私は、まだ角幡唯介度がじつに低かった。自分になるということがどういうことなのか考えたことさえなかった」「合理的判断に基づき、意志や意図により人生をコントロールしようとしたら、それは時代や世間の価値観にあわせた借り物の人生になってしまうだろう。事態にのみこまれ、思いつきを肯定してそれぞれの過去を引き受けることによってのみ、人はその人自身になることができるのである」
あぁ!!! いかん。めっちゃ響いてしまうよ、角幡さん。本当にすごい。本当にほんとーーーにすごい。
確かに。例えば今、このコロナの状況下で自分が変われない、自分が事態に飲み込まれないと踏ん張ってばかりいたら、生きにくくてしょうがないだろう。角幡さんはこれまた外的状況としての不自由と内的感覚としての自由を考察していく。そして重要なのは、やはり内的感覚としての自由だという結論にいたるのだ。
角幡さんって書評も面白いんだけど、やっぱり冒険し、そして本を読むことでこんなふうにいろいろ考えが深まるんだなぁ、と改めて感心。いやーーやられた。
角幡さんのエッセイ、これが現状一番かもしれない。他の本も大好きだけど、そうか、それ以上がこの段階で登場か、と妙に納得。素晴らしい。うなるしかない。ほんと同時代に生きれて、新刊が出るたびにこうやって読めて、私も本当に幸せなファンである。
あぁー、本当にやばい。ますますファンになった。もう一回読もう。