「親愛なるヘレン・ケラー、あなたは本当のことを語っていますか?」というメッセージが帯にかかれた、ただの偉人というわけではないヘレンの姿を鮮やかによみがえらせた最高の一冊。目の見えない著者がヘレン・ケラーに向けて書いた手紙の数々。日記形式をとっており、すごく面白い。こういうのを「クリエイティブ・ノンフィクション」っていうんだって。いや、マジで面白かった。今年もまた本ではラッキーな1年になりそうだ。早くも今年のベスト5はおそらく決定(笑)
訳もすごくよくって、いわゆる裏側に英語がすけてみえるような訳。だから実際は読んで理解するのに時間がかかるけど(英語特有の二重否定とか、ナンセンスな言い回しとか)、でもこういう訳、私はすごく好きなんだよね。直に英語を読んでいるような錯覚におちいるときがあるよ。素晴らしい。訳は中山ゆかりさんという方です。
ヘレン・ケラーって映画での「ウォーーーター」の井戸のシーンやいわゆる子供のころに読んだ偉人の伝記みたいなものでしか知らなかったけど、いや、この本を読んだらいかにそれらの話がディズニーランド化されていたものかよくわかる。いや、もちろん… それでも!! それでも!! 彼女が三重苦の中、成し遂げた功績が、いかに多くの人を励ましたかという功績については否定できない。が、やっぱりそれだけじゃディズニーランドなんだよ!
でも改めてこの本を読んでいかにディズニーランド的なものにしないと人々に浸透しないのだということを改めて感じるのを禁じ得ないのだ。本当の話はそんなに単純なものじゃないのに。いや〜、本当に勉強になった。
W-A-T-E-R ウォーター! この本の著者はこの、今では観光地となっているヘレンの生家:アイヴィー・グリーンでこの名高いポンプの水をボトル詰にして売っていないことにはびっくりだと揶揄する(笑)。(ちなみに井戸が描かれたマグカップや、ポンプの小さなレプリカは本当に販売しているそうです。やっぱディズニー化だ…)
それにしても、これからこの本を読む人は、いったん読む前にヘレン・ケラーのwikiに目を通すのがいいかもしれない。ヘレン・ケラーのことを詳しく知らない人、私のような人間にとっては、このWikiですら既にびっくりの連続だった。いかに自分がものを知らないか、だよなぁ、本当に。そしてすべてがいかに自分が知っているヘレンが、サリヴァン先生がプロデュースした子供のころ読んだ絵本の偉人伝におけるヘレンだったか、ということを考える。
やっぱり物事って詳しく知れば知るほど面白いんだよね… 本来そうでなくちゃいけないと思うよ。
まず意外だったのは実はサリヴァン先生は救貧院で育ったりしたものすごく貧しいアイルランド移民だったということ。ご本人も元盲人で大変な苦労をされたこと。身体虚弱で繊細だったこと。一方のヘレンは超お嬢様。何がなくて苦労したという体験がないというくらい。そして美人で身体も強く、いつもパリッとアイロンの効いたきれいな格好をしていた。こういう「見た目」の要素は実は障害を持つ人にとって非常に重要なことなのだ。(『五体不満足』の乙武さんとかもそうだと思うけど)
この本の冒頭、著者はヘレンが子供のころに書いた物語の盗作疑惑裁判(学校で行われた)について細かく言及する。そして「まずはあなたが知っていることをどのように知り、記憶していることをどのように記憶しているのですか?」という問いかけから始まる。うーん、そうだ、確かにそうだ。目が見えないわけなのだから。しかしその価値観は健常者たちがヘレンのような人たちを見た時に、自分たち自身から強く押しのけているのだ、とバッサリ切りつける。(私もここで深く反省)障害を持つ人たちの脳は刺激を欠いているので、発育が足りておらず欠陥だらけだ、と決めつけている。見たことがないものを想像できないと決めつけているのだ、と。まったくこの辺は言葉もありません。ごめんよ、ヘレン。(そして著者)
そして気になる「性」の話題。ヘレンは一生処女だったのではないかと勝手な夢想を一般の人たちは考えがちなのだけど、実際はどうだったのか? これについてはもちろん著者も自分の想像の域を超えないのだけど、すごく納得がいく考察だ。ヘレンは大人になってからもずっとサリヴァン先生と住んでいたのだけど、特にサリヴァン先生の夫であるジョン・メイシーとの話題には興味をそそられた。Wikiにもあるけど実は3人で同居していたようなのだ。これってちょっといじわるだけどエンヤとニッキー・ライアン夫妻を思い出させる。あそこも3人で同居の形をとっていたはずだが、いったい寝室のレイアウトはどういうことになっているのか。実際メイシーは先生よりうんと年下で、どちらかというとヘレンに歳が近かった…という圧倒的な事実もある。そしてそのあとに起こるヘレンの「駆け落ち未遂」問題も。ヘレンはもしかすると、ものすごく思い込みの強い人だったのではないか? その一方で障害者が子供を持つことにはヘレン自身も反対したという記述が残っており、この辺は本当に深堀りしたいところだ。もう故人だからヘレンの真意は確認できないけれど…
そして大学を出たあとのヘレンのキャリア。物書きとしてやっていきたかったであろうヘレンの才能をハンドルしていたのは、あくまでサリヴァン先生だったわけで、そのパワーの元でヘレンがいかに抑圧されていたかが容易に想像できる、と著者は言う。本当はメイシーの影響もあって急進的な左の思想に走りたいヘレンの手綱をにぎり、サリヴァン先生がプロデュースして作りあげたかったものは「苦労して言葉を覚えたヘレン、そしてそれにものすごい貢献した私」である。そしてそれはある程度の成功をもたらした。それはまぎれもない事実だ。私にような一般の人間のヘレンに対する思考はそこで止まっているし、日本の大多数の人のヘレンに対する印象も似たようなものだったと思う。ちなみに「奇跡の人」の原題「Miracle Worker」はヘレンではなくサリヴァン先生のことだという解釈の方が欧米では浸透している。
そして…いまや有名人となったヘレンはサリヴァン先生、そして先生のアシスタントなどいわゆる同居人を養っている状態だった。そして制作した映画が失敗したりしたこともあって、「チーム・ヘレン・ケラー」もしくは「ヘレン・ケラー・エンタプライズ(笑)」は安定した収入に飢えていた。で、実は生活のために、ちょっとしたヴォードビル(いわゆる興業というか営業のステージ。決して堅苦しい講義ではない)みたいなこともやっていたらしい。ヴォードビルで、いわゆる漫才や手品などと一緒に20分、与えられた時間の中で受ける話をする。それこそチャップリンなどが駆け出し時代に出演していたらしいのだけど、短い20分ほどで先生と一緒にステージに出て、先生がことの経緯を説明し、途中ヘレンがしゃべってみせるという、ちょっと「見せ物小屋」的活動なのだ。一方で、大学などで行うヘレンの通常のレクチャーは1時間から1時間半の長いもの。それがヴォードヴィルでは20分しかステージに立てず、しかもチラシには「驚くべき物語に注目!」とかあおりの言葉が踊り、オーケストラピットのヴァイオリン奏者はソロで先生が話しはじめると同時に哀愁のメロディを奏でるなどお涙演出たっぷりだったのだという…。これは当たるわな…
それでも! 実はヘレンはそういった営業チックな活動を楽しんでいたらしいというのが、この著者の解釈だ。これが大受けして大成功したことをヘレンは実際に体感できている。観客の歓声は床を伝わって感じられたし、空気があったかく変わるとそれを敏感に彼女は感じとっていた。(すごいね!)
質疑応答などではとても気の利いた回答を見せ、それをヘレンは非常にやりがいがある楽しい仕事だと思っていた節がある、と著者。実際サリヴァン先生の口上のあと、ヘレンが「こんにちは、わたしはヘレン・ケラーです」と語りだすと観客は拍手喝采だった。
思うにヘレンはきっと「芸能人的」な才能があったのではないかと、私もこの本を読んで思った。わかる。人の注目を得て、それを最大の喜びだと捉える生まれながらの「芸能人」だ。
一方のサリヴァン先生は生活のため、と思ってしぶしぶこの仕事を引き受けてはいたものの自分が演出するヘレンと、ヴォードヴィルのヘレンがまるで一致しないのに悩んでいたらしい。目が見えなくても耳が聞こえなくても身体は強靭なヘレンと違ってサリヴァン先生は虚弱体質で、ヘレンより歳も上だし、激しい移動には耐え難かったということもある。だから旅暮らしはとてもキツかった。現にヘレンが遠い遠い日本に初めてやってきたのもサリヴァン先生が亡くなった後だった。
ヴォードヴィルの仕事は受けに受けたけど、そのうちAFB(アメリカ盲人擁護協会)のアイコンとしての仕事が入り、そこから収入を得るようになったチーム・ヘレン・ケラー。でも実はヘレンはヴォードヴィルでの仕事を辞めたくなかったのではないか、と著者は推測する。しかし先生がやめたがっていた。だからそれに従うしかなったのではないか、と。そして同時に著者は、ヴォードヴィルでの出し物についてはヘレンを個性とユーモアを持った完璧な人間であることを示すことはできたけど、それはその一瞬だけで、誰かに長期的な社会行動などをうながすものではなかったと考える、とも。(なかなかするどい指摘)
そしてサリヴァン先生の最後の方はどんどんわがままに気難しくなっていき、ヘレンは彼女をなだめようと必死になっていたらしい…うーん、分かるなぁ!
時々差し込まれる著者のメッセージも力強い。
「人間であるためにはいろいろなあり方があります。それこそが、あなたが世界に語りかけたことでしょう。外面上は、かなり当たり障りのない声明のようですが、実のところ、これはまったく画期的です」
「それは人々に、彼らが正常なものとして、当然のこととして考えているすべてのことを疑うように強いるのです。私たちはそのことを、彼らの関心のなかに、彼らの世界のなかに、押し入っていくことによって主張しているのです」
「私は、彼らの多くについて、私が知っている健常者たちについて、本当にひどく心配しています。もし彼らの誰かがこれから身体障害者になることがあれば(なかには、ただ老化というプロセスでそうなる人もいます)、ひどくやっかいなことになるでしょう」
「彼らがただ恐れを捨て去ることができたなら、と私は考えます」「私にもまた恐れはあります。聴力を失うのが怖いのです。ですが、もしそれが起こったならば、あるいは起こったときには、それで何とかやっていくことができるだろうとわかっています」
「それでなんとかやっていくのは、私にとってさほど馴染みのない概念ではありません。でも健常者にとっては、それで何とかやっていくのは、ただ考えるだけでも恐ろしいことです」
…深い。
また著者はある日、テレビでクイズ番組を見たと言う。テーマは「有名な女性」、それは誰かを指すのかを当てるというクイズで、それを見た著者は答えへ導くためのヒントに三重苦のことではなく「その女性はラドクリフ・カレッジ(今のハーバード大学)を1904年に卒業し、婦人参政権論者、講演者、ヴォードヴィルのパフォーマー、そして作家として活動を続けました」というヒントが出されたのよ、と喜びをヘレンに向けての架空の手紙の中に綴っている。そして、それはすごく嬉しいことだ、とも。
これがまさに現在の世界が記憶し理解しているヘレン・ケラー像であり、三重苦やウォーターの話だけではなく、こんな風に紹介されたことはとても良いと著者は喜びを感じているわけだ。うん、いいね!
そして、著者は学校の先生なのだけど、「もし今の時代にヘレンが生きていたら」という生徒の質問に大してとても有意気がな答えを返しているのもいい。
著者はヘレンは「アクセスポリス」になったらいいんじゃないかと説く。つまり「アクセス警察」。新しい建物を建てる時、これじゃあ障害を持つ人はアクセスしてませんよ、障害を持つ人を排除していますよと指摘するアクセス警察。(マスク警察、着物警察みたいなもんですね)ヘレンがアクセスポリスとして活躍しているのを夢見るのが、とても楽しい、と著者はつづる。(ますますいいねぇ〜)
それにしてもこの著者、素晴らしいわ。ただ単に伝記や、資料を読み、それをアナライズするということだけではない、目が見えない人の繊細な感覚を使った表現には唸るばかりだ。周りの空気、匂い、全てのヴァイブレーションを感じるするどい感覚を自分たちは持っているのだとして、精細に状況を記述していく様子は、この著者の真骨頂だ。そして最後はヘレンが亡くなった時の描写も含まれていて、これもまたとてもリアルだ。ぜひぜひ皆さんもこの本を読んでほしい。
この本がすごくよかったので、このあとヘレン・ケラーの自伝などちゃんと大人用に書かれたものをじっくりと読みあさってみたいのだが、最近積読があまりにひどいのでそれはやめておく。しかしこういう本は、好奇心というか知識欲を刺激されるよなぁー。障害がある人、目が見えない人、耳が聞こえない人を私たちは本当に理解していないのではないかということを改めて感じた。というか、私はまるで理解できてなかった。自分でも気をつけているつもりだったけど、単に「感動ポルノ」を見ていただけだったのだ。反省である。こういう人たちはきっと生きていくのが大変なんだろうな、ということで片付けていただけだった。でもほんとうにこの作者の言うとおり、きちんと想像してきちんと考えれば、本来は世間で言われている通説が嘘か本当かわかってくるはずなのだ。だから面白いんだ、人を知ることは。
そして改めてヘレン・ケラー=奇跡の人。すごい偉人、大変な努力家ということだけではないヘレンの姿が広く知られることは、とても重要なのではないかと思うのであった。
そこで改めて思うのは例えば「愛と平和のジョン・レノン」というジョン・レノンの一つ姿だ。このままだとオノ・ヨーコのプロデュース力でジョンは本当に愛と平和の人だったということになりかねない。歴史は残されたものの都合であれこれと塗り替えられていく。誰かジョンをそこから解放してやってくれ、とも思うのだった。本人生きてたら、何と言っただろうなぁ。少なくともこれはいわゆるステレオタイプのヘレン・ケラー像を打ち破った非常に面白い本だった。必読二重丸。