玉城ちはるさんの連載エッセイ「死にたい彼女と住んでみた」


最近fbをゆっくり見る時間なんてまるでなく、自分のアップデートで精一杯という状態。あとはその時たまたま目に入ったタイムラインを見る…という状態だったのだけれど(まぁ、でもSNSってそれくらいの距離でいいんだよね)

久しぶりに玉城ちはるさんのアップデートを見てびっくり。こんなエッセイを書いてらした。


自殺願望がある女性と同居していたのだそうだ。玉城さん、すごい。思えば、私がお仕事をご一緒していたころから玉城さんはすごかった。たくさんの留学生の寮母さんみたいなことをやっていて、いろんな子たちの面倒を見ていた。

彼女と初めて一緒にいったご飯で(池袋のちゃんこ屋だった。私の好きな店)自分は自殺遺児である、ということをサラッと言われた時、正直どきっとしてなんと返していいかわからなかったけれど、とにかく玉城さんはすごく自然体で、かっこいいから、私は彼女が大好きだった。

でも一緒にやってた文化放送のプロジェクトが終了して、そのまま疎遠になってしまっていたのだ。でも彼女はアクティブな人だからね。ほんとに、例えば彼女のやっているライブとかにふらっとチケットを買ってお邪魔することもできたんだろうが、私もひどい。

そんなわけでしばらく前にfbでは再度つながったものの、なかなかじっくり玉城さんのタイムラインをチェックはできてなかった。

で、このnoteである。

一気に最初から現在発表されているところまで読んでしまった。

「自分も生きる意味を問わずにはいられない人間だった」と告白する玉城さん。でもある日「自分とは…とか考えること自体、図々しい。自分なんてなんぼのもんじゃい」と思うようになってから心が楽になったのだという。

それ、すごくわかる。私もそうだ。私も何かというと「人間はなんのために生きているんだろ」っていつも思ってる人間だ。だから自分の存在価値が社会的に発揮できる仕事が大好きだし、なんとか人の役にたちたくて努力してきた。

でもある時気づいたんだよね。それは裏をかえせば、私が努力をしない人たちに対して、この人たち生きる意味がないよ、って厳しく思っていうことの裏返しだってことに。役にたってない人は生きている意味がないという、何かを生み出さない人間はダメだという、あまりもひどい偏見を自分が持っていたことに。

いや、いまだにこれを100%納得なんかしていない。何もしない人に、イライラ。仕事しない会社に通ってるだけの親父とバカ女にイライラ。自分の思い通りにならないいろんなことに、イライラ、イライラ、いつもイライラしている。そして、ふと気づくと、その裏返しみたいに、いつも自分の生きる意味を考えている。

生きることは本当につらいんだよね。びっくりするほどつらい。それこそイヌイットや、ブータンの山奥に住む人たちや、洞窟おじさんの洞窟時代みたいに、その日の食べ物を狩猟しているようなそういう状態にでもならなければ、私に幸せなんて訪れないのかもしれない。食べることが、貨幣経済とか社会の分業とか、そういうことが要領よく解決されている今だからこそ、空いてる時間で生きる意味とか考え出しちゃって、逆にもう生きる意味がないって言うか…(笑)

常に何かの役にたっていないと気がすまない、そして人にも役にたつことを要求している、ちっちぇー自分のことを確認せずにはいられないのであった。

そんな自分ではあるが、とにかく玉城さんとこの彼女の連載、続きを読むのが楽しみである。彼女と玉城さんがいったいどこに着地するのか。いや、着地なんてないのかも。ま、でも誰の人生もたいしたことはない。ただその時その時に妥協して、自分を誤魔化しながら、生きていくしかないのである。それは誰にとっても同じなのだ。

「生きるということは不快に耐えてやり過ごす 時間の連なりに他ならない」by 角幡唯介(from 『アグルーカの行方』)

…と言う言葉が好きだと角幡さんご本人に言ったことがあるんだけど、角幡さんはきょとんとしていた。どうやらご本人はたいした思い入れもなく書いたフレーズらしい。まったくすごいよなぁ、天才だよね(爆)

そういえば、角幡さんのこの映画の上映後トークもすごくよかった。生きる意味とはいったい? こちらにレポートを書きました。『生きること自体が目的』

生きること自体が目的。

玉城さんの音楽。