自分の言葉で語ろう

 


冷やし中華が大好き。家で作る時はどんな材料よりで作るよりも「中華三味」の袋麺が好き。1週間に二回は食べてます。

さて昨日の朝から話題になっているこの記事。

私は当時紅白も見ていないし、中村さんの音楽もよく知らないので、何もいうことはないのだが、こういう自分の気持ちを正直に言うことは大切だよなぁと思った次第。まぁ、とはいえこの記事だって、編集の意図が入っているのかもしれない。やろうと思えば自分のホームページとかで、まったく自分の言葉だけで発表することもできたわけで、加えて意地悪な見方をすれば、14年前を今、語ることで新たなパブリシティを取らねばならないマネジメントの思惑もあるのかもしれない。とはいえ、この記事をあえて紹介しているマネジメントの皆さんの気持ちも、勇気あるよなぁ、と感心したり…  まぁ、いろいろ考えさせられる記事ではある。

実際、見てくれや派手な成果を出している時ほど内側はボロボロだったりするのは、ウチのプロジェクトだって一緒。地味ぃーに誰からも認められない仕事を、少人数で貧乏にやっている時が一番幸せなのかも、というのは常にある。

オリンピックについても思うことはある。選手たちは18歳すぎたら「まだ若いから、うんぬん」抜きで、もっとこんなふうに自分の気持ちを率直に発言をしていいのではないかと思ったりしてしまう。それは厳しいんだろうか。でも14年もたって…という感想を持ったことも事実。もちろん時代がそうなるまで待つ、ってことだったんだろうが、いや、時代が変わるのを待つよりも自分で切り開こうよ…というのは厳しい意見なのか。

自分の言葉で発言をすれば、それは自分に直接戻ってくる。私がここでこんな風に書いていることも同様だ。アーティストが自分で発信すれば、マネジメントの盾はもう効かない。すべて自分の発言であり自分の責任なのだ。

発言すればするだけ、それにあれこれ言う人が出てくるるのは、もう当たり前。そんなの若いうちに経験しておいたほうがいいよ、と私なんぞは思ってしまう。そして、いったん打たれ強くなったら、儲けもん。何を言われても怖くなくなる。

最近、とある若い人のブログを読むことがあり、彼女のブログを数年前からさかのぼって、3、4時間読み耽ってしまったのだが、そこでもいろいろ考えた。自分が同じ歳くらいの時のことを思い出す。当時はインターネットの黎明期。今でこそいやなことは滅多に怒らないが(というか、実際起こっていても気づきもしないし気づいても気にもしないが)、当時は発信するだけで、まぁ、本当にあれこれ言われた。SNSこそなかったが、掲示板と言われる場所は誰でも無責任に匿名で勝手なこと書き込めるので、よく考えれば「おかしいでしょ」みたいな誹謗中傷をあれこれ書く人が多かった。でも、周りを見渡せば、例えばインターネットで物を売っているということだけで、ホームページがあることだけで、多くの人があれこれ言いたいように言われていた。「あーだこーだ」あることないこと流され、見事に「発信している全員」が被害にあっていた。だから私は分かったね、これはもう「何かをやるだけで」ダメなんだな、と確信した。まったくの潔白というわけにはいかないんだな、と。

通販にしたって、何か不備があったり間違うのは大抵お客さんの方で、こちらは年間何百、何千と処理しているわけだから、滅多なことでは間違えたりすることもないのだが、何かがあるとこちらのせいだとギャーギャー「詐欺だ」「騙された」と騒ぐ人も多くはないが、それなりの人数がいた。でも楽天が始まって個人でも物を売る人が増えたり、無料ホームページ作ったりすることができるようになった今、だいぶそれは緩和されてきたように思う。いや、そうではなくて、まだそういったクレーマーの被害にあってる「発信する人」は多いかもと思う。ただ単に分母が大きくなって見えにくくなっただけで。

例えば印象的なお客さん(というか、お客さんでもないんだよね)「うちでリリースしているCDは音がおかしい」と言って、某大手の外資レコード店の店頭でかかっているCDにいちゃもんをつけた人がいた。レコード店の構内放送用のスピーカーでそんなもの判断できるわけないし、それこそ何かおかしければプロである店の人が速攻で気付きそうなもんだが、彼女は店にクレームし、このCDは売るべきではないとか言っていたらしい。

今、考えても悔しく思い出されるが、でもそんな「足元」のごちゃごちゃに囚われていると、何もできないので、無視して強くなるしかなかった。今思えば笑える経験である。もっとも若い私にはそれなりの負担だったけれど。それを「偉いねぇ」とも言われるが、そんなのは「慣れ」である。「慣れ」。慣れなくてはいけないのであれば、早く慣れちゃったほうがいい。

何か行動したり表現したりすれば、人は自分のことは棚にあげて批評めいたことをその人に言う。でもそれによっていちいちナイーブに傷ついていたら何もできないんだよ。傷ついても、何か行動し、表現していこうじゃないの、と思う。そうでないかぎり、自分のやりたいことなんか実現できない。そして、そうした行為はその人を強くしてくれる。

その私よりうんと若い彼女のブログを読んでいてそんなことを考えた。実際、彼女はブログから読み取れることだけでも、本人が数年でグングン強く成長していくのが手に取るように感じられた。それによって彼女の音楽もどんどん研ぎ澄まされていくのだろう。若い人は素晴らしい。私が10年かかったことを2年くらいで実現している。

是枝監督のこの話も友人のツイートで知った。是枝監督のレベルですら、こういうことは「ある」ことで、かつそれとなんとか折り合いをつけて進んでいくしかないのだ。そして自分が負けた、と言えてしまう心意気がすごい。それをこうやってきちんとブログに書く監督はやっぱり素晴らしいし、「思惑」ということを超えていく作品のパワー。そして被写体のパワー。是枝監督はそこに感動し、作品そのものの力を信じているのだ。本当にいいよねぇ。

芸術とか、いったん発表された作品は、自分のものだけど、もう自分のものではない。特にヒットしたり話題になってしまえば、それはもう社会のもの。それについて制作者が何か言ったところで「言い訳」に聞こえてしまうかもしれない。

でも「単なる言い訳」としてしまうにはあまりにも状況は複雑だ。一つ一つの成功に見える何かの後ろで、こんなに複雑な何かが存在しているということを知ることは、誰にとっても良いことなのだから、こういうことを発表する場所がある、インターネットはやっぱり素晴らしい。思ったより時間がかかっているが、東浩紀の言う一般意志2.0は、やっぱり実現しつつあるんじゃないかとさえ思う。

そこに共感も生まれていくし、自分が知らないことについて無責任にあーでもないこーでもないと発言するのを抑制する人間が持つべき想像力も育まれていく。

とはいえ、これも複雑なのは、是枝監督も本音のところでは「企業のスポンサー案件はやっぱり難しいよな」とか、心の中で「これ以上はこりごり」と考えたかもしれない。もちろんお金を出す側が100%強いということではない。お金はクリエイター、アーティストの皆さんと、お金はもってるのにその手の才能はないクライアントのバランスを埋めるために支払われているのであって、お金をはらっているからといって一方的に強いわけではない。そしてきちんとクリエイターの考えを尊重してくれるクライアントさんもいる。

だが、それは棚に置いておいたにしても、私がこの是枝監督のブログを読んで考えた重要なことの1つに、こういう葛藤から逃れる確実な方法としては、どんな案件でも自分とお客さんだけで直接ファイナンスの責任を持つということは重要なんだなとも思った。スポンサーは取らない。マネジメントは雇わない。すべて自分の責任でやっていく。誰かに雇われるのをやめる。そうすれば金銭的な成功は遠のくけれど、そしてヒットもしなくなるのだけれど、大抵の心理的な問題はさけられる。つまりヒットをねらいたかったら、ある程度は我慢しなさいということなのだ。私には仕事人間30年以上たっても、まだそれができない。仕事やプロジェクトの成功よりも自分の気持ちの落としどころが一番重要だという考えがある。そう言う甘えがある。だから見事にヒットがでない。でもそれでいいんだ。私が幸せなんだから。とにかく自分でファイナンスもなんとかしてるんだから、自由にやらせろ、と(笑)。そうやっていつまでたっても大人になれず学ばない… とほほ(笑)。巻き込まれるアーティストさんは本当に気の毒である…

でも、それはいけないなと思いつつ、自分で自分の好きな部分でもある。ちょっと前に記事になった「独裁者は自立自営業者を嫌う」ってのも思い出した。勇気をもらえる記事だよね。自分の責任で人に迷惑を(なるべく)かけず、やっていく独立したこの自由を噛み締めている。

人に迷惑はかけていない、とは言わないよ。人は存在するだけで誰かの迷惑になり、誰かのことをイラつかせている。それはわかるんだ。でも自分の言葉を話せなくなったら、自分の仕事ができなくなったら、それは死んでいるのと同じだ。少なくとも私にとってはね。

では仕事、今日も頑張ります。はぁ、今日も頭痛がひどい。