早稲田大学探検部 ナカタン氷河遠征報告へお邪魔してきました!

前回の報告会参加は、これだった。なつかしいなー。5年前。高野秀行さんが登場したのだった。

で、今回はやはり探検部の報告会に角幡さんがなんとご兄弟で出ると聞き、駆けつけたのでした。昨日「彼は早稲田で死んだ」の感想ブログをアップしていたので、なんかここ数日、早稲田づいてる!


立て看板。かっこいい!




というわけで、レポートです。なお文中の発言は私がメモったもので、録音などもせず…だったので理解が及ばない部分や誤解があったらすみません。文責:のざきでお願いいたします。

まずは大隈講堂のロビーの展示!


なんと今回は標高6,000mで油そばを食べるというミッションもあるのだ!



すごい。歴史!! 探検部の連絡ノート。85年ごろのもある。ということはよく探せば高野さんも出てきてたかも… 震える。


今回の探検部の皆さん。前回参加した時にお会いした井上隊長はいるかな…と思ったら、いなかった。そうだよね、みんな卒業していくんだもんね。

今回はこの5名の皆さん。本当にお疲れ様でした。


チベットの奥地にある氷河で、あれこれ観測。3つ目のミッションには笑うけど、なんというか探検部ってどんなに真面目にやってても、こういう空気がつきまとう。芝居がかっているというか、なんというか。ここが今の時代の探検の醍醐味というか、スポーツと違うところというか…。(いや、褒めてるんですよ、褒めてます)

ほんとにそこが素晴らしいんだよね。特に今回、隊長が大変だったのはコロナによる遠征の延期延期で隊員のモチベーションをキープするのが大変だったとか。

最初決めたときにいたメンバーは、誰も結局残らなかったそうです。隊長も5年生。メンバー総入れ替えでのぞみました。

他にも報告映像の編集とか、本当に大変だったみたい。昔は映像なんて無理だったけど、今は頑張ればできちゃうからね…   報告会に映像ないとか許されないもんね。でも当人たちは荷物なんて1gでも減らしたいという過酷な状況にいるのに!!

それにしても飛行機や車で行けるのはわずか。ラバに荷物を運ばせて、最後は登山で氷河に登。途中クレパスに落下しそうになったりとか、危険もいっぱい。それにきついのが高山病。吐き気がひどくなり頭も朦朧としてくる。加えて円高の煽りも受け、本当に大変だったみたい。いや〜、ほんとうにおつかれ様でした。

隊員の中では、とくに女の子がよかった。彼女は高山病になった自分の浮腫んだ顔の写真もBefore Afterで後悔し、普段はしゅっとした綺麗な子なのに、本当に痛々しい姿を見せてくれた。

彼女によると彼女の高山病の敗因は、水分をたくさん摂らないといけないのに女性である自分は隊員の中で女性一人でトイレを気にして十分に摂取できなかったこと。そして歩くのも自分のペースで歩けなかったこと(心拍数のコントロールができなかった)などをあげていた。

あぁ、気持ちわかる… さぞ悔しかっただろうなぁ!!

前回の報告会でも女子がめっちゃいい味出してたけど、今回の子(ごめんなさい、お名前失念)もすごくよかった。本当に本当におつかれ様でした。

二部になって角幡兄弟登場。ちなみにチン正男さんというのは、早稲田の武蔵野油学会のオーナーである角幡さんの弟、角幡陽平さんのことなんだけど、陽平さんによると陽平さん本人とは別の人格という設定らしい!?

武蔵野油学会、ホームページ見てるだけでも面白いからぜひ。Twitterも最高だよ

角幡さん、自己紹介ということで、27年前に自分は早稲田に在籍していた。今は北極をやっているけど、今も気持ちは27年前もあまり変わらないと。

報告会の感想をもとめられて「すごい、ちゃんとしているな」とまず思ったそうです。学術調査とかすごい。自分が学生の時は、こんなこと思いもよらなかった。剥き出しの冒険心だけだった。

そして自分は一人、時々犬と一緒にやっているだけなので、仲間と一緒というのは羨ましく感じられた。青春というか。そして現地の人との交流も楽しそう。

自分も若いころ、この隊員たちと同じくらいの年齢の時ニューギニアに行った。そこで一緒にいった藤原さんや峠さんが、今の自分と同じ歳くらいだったのだけど、いつも彼らが夜、現地の村人やシェルパの人たちと交流せず、とっとと蚊帳の中で寝てしまうのか不思議だった。

自分は蚊にさされながらも現地の人たちと交流するのが楽しくてしょうがなかった。でも今は藤原さんたちの気持ちもわかる。もう今はあまりそういうのは面白いとは思わなくなってしまった。

今もシオラパルクで現地の人と話すけど、もっと自然で交流ということではない。自分の純粋さや、心の感性なんだろうな、と。経験が積み上がるとなくなってしまうのかも。だからとてもうらやましい。若い頃に戻りたいとはでも思わないけれど… とのこと。

弟の陽平さんは報告会の感想を聞かれて、よくやったよなぁ、と。自分は探検しないから熱いドラマや深いところはわからないけど、感動した!とお話されていました。どんぶりまでちゃんと持って行ってたけど、それ、もういいから捨てようぜ!みたいな。(会場大爆笑)

確かにあの極限の中で、どんぶりをわざわざ持っていく隊員たちすごすぎる!!

ちなみに標高6,000mでの油そばはお湯の沸点が70度くらいでうまく茹だらず、あまり美味しくなかったそうです。とほほ…

でも探検って、変なことをやりがち。それによって、みんな狂気か真理に辿り着く。何かが見える(笑)

角幡さんの探検部在籍時にも、中国の公の組織とタイアップしたすごい探検やってる人たちもいたそうです。それこそ朝日新聞の見開きで報告会やったり、華々しいことをやっていた。

でも自分は当時からそういうメインのグループには入りたくなくて、へんな先輩にくっついていた。それでうまくいかなくて、その後自分で独自の探検を始めたのかもしれない。

たいしたことができなかったのが、今の原動力になっているのかも。

やり残したことが呪いみたいになって、完璧だと思ったことがない。それで27年やっている。ずっと終わらないし、満足することもありえないだろう。

自分は計画をするのが下手くそで、準備もざっくりしている。日程、食料などざっくり。昔はそれでも少しはやっていた。でも、今は調べだすとキリもないので、あまりやらない。今のスタイルの方が自分にあっている。その時の流れで旅を作っていく感じ。

今は犬ぞりをやっていて、食料を持っていくにしてもせいぜい2、3週間とか限度があるし、どうしても途中狩りをしながら行くしかなく、事前に決めてもあまり意味がない。狩りは計画を立てられないから。それが逆に楽しく、自分にあっている。

実は今も15日から出発なので忙しいけれど、それは確定申告で忙しい(会場爆笑)。旅の準備はあまりしない。

また陽平さんとツアンポーの旅の準備段階で中国の遷都で合流したこともあったのだそうです。この話も兄弟のやりとりがあって面白かった。

陽平さんによると当時から角幡さん(兄)は結構ざっくりだったそうで、DV男にガイドを頼むとか、これで大丈夫なのかなと思ったそうです。

兄弟の共通点は角幡さんいわく「苗字しかない」そうで、大学のころは国連職員になりたいとか弟さんは話していたよね、という話題になると、弟さんは小学校のころ(10歳くらい)探検家になりたいとお兄さんに話したことがあったそうです。(あくまで弟さんの方ですよ!)

それはテレビで植村直己のドキュメンタリーを見た時だったそうで、最初はどんくさく「どんぐり」とかよばれていた植村さんが、メキメキとレジェンドになっていき、最後は山で亡くなってしまったのを見て、当時自分はどんくさいと思っていた陽平さんは痛く心を動かし、お兄さんに「ゆうちゃん(と呼んでいたそうです)、自分も探検家になる!」と宣言したのだそうです。

で、ここでお兄さんの発言がすごい。角幡さんは弟さんに「植村さんがやったことと同じことやってもしょうがない」と言ったそうです。すごい!! 弟さん小学生って、ことは角幡さんも小学生かせいぜい中学校1年くらいだよね…。これすごすぎませんか。

でもって角幡さん(兄)の方は、この会話はあまり覚えてなくて「もっと現実的になれ」って言ったかも…とお話されていました。

でも弟さんもお年玉をためて襟裳岬を徒歩で旅行したり、そういうこともする人だったそうです。

本当に共通項がない二人ですが、角幡さん(兄)いわく、就職はしなかったところが似ているかなぁ、と。

ただ自分は朝日に入って会社経験もあり、そこでは「書く」ことを覚えたので、後悔はないけれど、人生の完成度としてはマイナス(こう言えちゃうところが、角幡さんだよなぁ!)。その点、弟は就職を一回もせず完全フリー。

陽平さんはお兄さんについて、お兄さんは神童タイプで勉強はなんでも一位だし、家もトロフィーだらけ(習字じゃない?とお兄さん。お姉ちゃんのじゃないかなぁ、とも・笑)。

でも同じメーカーの違う製品という感じはする。面白いことをするのが好きで、陽平さんがお兄さんの本を読んでいても真面目になっていくと変なことを書いてみたり、そういう展開が自分でもわかるのだそうです(さすが兄弟!・笑)

自分もとうもろこしのイベントとかやったんだけど、ぐちゃぐちゃになりながらも一人でやるのが好き。そこが共通しているかも、と。

角幡さんいわく、角幡家は血筋的にお父さん側は「ちゃんとしろ」という感じ。母方はとっても変で、九州の麻生財閥とはりあってた?炭鉱王のお家だった。外国人みたいな顔立ちの人もいて、当時外国人に産ませた子供だったのではないかという噂もあり(笑)。

特に角幡兄弟のおじさんにあたる人で、早稲田の左翼だった人もいて、いわゆるフォークシンガーやったり、革命家を気取り、自由な風来坊という感じの人がいたんだそうです。

その彼が時々家にやってきて、自分の家とは違う空気を運んできてくれていた。その影響もあるかも、と。

ここで自分の活動を書くことについて、隊員から質問されて、角幡さん(兄)。自分の活動を作品にしたいという気持ちがあるだけで、書くことの社会的意味とかあまり考えたことはない。

ただ書かないと(探検をすることが)許されないので、理由づけしている感じ。自分に対する批評。他の人と違うことをしている、時代の常識、世間とは違っているということ。他の人と違うことがやりたい。そして「主流」を揺さぶること。主流の方を相対化すること。それが唯一の意味。

外側に探検のネタを探していると続かない。何かの活動をするときに外側に何かを求めると行き詰まる。ずっと続かない。行動の原理を外側の新鮮さにもとめない。自分の内側に見つけること。それが最初の原動力。それによって自分の目標が見つかってくる。それを続けているのだ、と。

これはおそらく死ぬまでやるだろう。それが可能なのは自分の行動の立脚点を外側にもとめていないから。外側=ネタ探しになる。続かないし、ネタはいつかつきる。

今、自分は極地をやっているけれど、極地でなくてもいいと思うようにもなってきた。とにかく自然に深く入ること。やりたいことがどんどん変わってきた。生活に軸足を移すのもいいかもしれない。それは(探検)撤退ではなく、「発展」ということ。


もうめっちゃ感銘を受けた。すごいパワーもらった気がする。


いやーーー すごいな。早稲田。大隈講堂。やっぱりなんか憧れる。音響も良さそうだし、いつかここでコンサートしたいなぁ。

でもとにかく昨晩のヒーローは、でもこの過酷な探検を成功させた探検部の皆さんだ。この経験は、みなさんを一生支えていくと思う。56歳の私でも超元気をもらいました。

いやー本当におつかれ様でした。これからも頑張ってください。次の遠征報告会も期待しております。