カズオ・イシグロ「文学白熱教室」を見ました

英国タイムズ紙の「1945年以降最も重要な英文学者50人」にも選ばれているベストセラー作家、カズオ・イシグロ。1989年「日の名残り」でブッカー賞を受賞。今年3月、10年ぶりの長編「忘れられた巨人」を発表しました。

で、ETVで放送になった「文学白熱教室」、すっごく内容が良かったので、ここに自分用のメモも兼ねて番組の内容を書き記しておきます。(なお番組を録画し、それを見ながら書き起していますが、私の理解に間違いがあったらすみません)


「なぜ読者は小説を読みたいと思うのか」「なぜ我々は小説を書くことをするのか」

文明にとって文学は大切な物だと認識されているが、私たちが暮らしている現代にとって本当に重要なものなのか? それを問いたいと思う。エッセイやノンフィクションでもないのに、小説はいったい何かの役にたつのだろうか?

自分が小説家になった経緯、その動機を話そう。私は見た目は日本人だが、振る舞いは欧米人だし、英語で話をしている。今60歳だが、5歳までは九州の長崎に住んでいた。当時は日本語しか話さなかったし、住んでいた家も畳がある典型的な日本家屋だった。5歳になって両親の仕事でイギリスに移り住んだ。そして15歳になるまで自分はいつか日本に帰るものだ、という前提で暮らしていた。それが両親の予定だったからだ。

それもあって自分が日本と呼ぶところのイメージがいつも自分の頭の中に存在していた。それが自分の幼い頃の記憶だ。そこにはイギリスで読んだ日本の話や、両親に聞かされた話などが混ざっていると思う。そして実際の日本の現実とは、まるでかけ離れていたと思う。

私が小説家になろうと思った動機は、22、23歳ごろ、自分がそんな風にずっと頭で描いていた日本を本に書きしるしたいと思ったからだ。現実の日本をリサーチする気はさらさらなかった。私はこの秘密裡に残してた個人的でかけがえのない日本を、紙に書き記しておきたかった。小説に書くことが、私のこのイメージの中の日本を安全に保存する方法だったから。

「遠い山なみの光」戦後イギリスで生きる日本の女性が過去を振り返り必死に生きる。長崎が舞台。

なぜ小説なのか? フィクションの世界とは? 小説ならば自分の世界をそこに保存できる。小説ならば自分の情緒的日本というのを止めることが出来る。そこが私の出発点だった。自分の心や頭の中にある内なる世界を、人が訪れることが出来るような具体的な世界にして外に出すという方法だ。
それで私は自分が安心できると考えていた。

だから私の最初の2冊は日本が舞台だけど、それは自伝的な小説ではなかった。むしろ私より両親が体験したことに近かったかもしれない。私は最初から自伝的な小説を書くことには興味がなかった。むしろ自分が覚えている世界を具体化することに重点を置いた。空の色や路面電車の音とか… 色や感触や食べ物など……体験したことよりも感覚的なことを保存したかった。

質問「もし20代の自分に会えるとしたら、どんなことを言いますか?」

いろんなことを言いたいねぇ… でも不思議なことに今の自分は20代の自分を称賛するだろうな。今だから分かることだが、今の書き方と当時は全然違う書き方をしている。今の自分は作風をすごく意識するようになったし…今の方がテクニカル的にはすぐれていると思うが、若い頃の、若い作家としての自分を、どこかうらやましいと思う事がある。当時の自分にはわき上がるように膨らむパワーがあった。それは年々失ってしまったものだ。

この2冊のあと、私の初期の目的は充たされた。それと同時に気付いた事があった。私の小説は欧米で良く読まれているせいか、読者は“なるほど、これは日本の事なんだ”という認識で私の作品を読むことが多かった。1980年代は日本の文化はまだそれほど広く知られていなかった。だから人々は日本は異国情緒あふれる不思議な国だと認識していた。

私はこれは問題だと思い始めた。うぬぼれた言い方をすると「これは自分の独特なスタイルだ」と自分で信じていた才能を、読者はすべて日本のことだ、と受け止めてしまった、ということなのだ。私は(日本だけではなく)人間と人間性の普遍性についてつづる作家として認識されたい、という欲求にかられた。

外国特派員とかジャーナリストとか、そういう観点で日本のことだけ書いているんじゃないのだ、と。そして舞台が日本ではない小説を書こうと決意した。当時は読者は私が日本のことをよく知っているからこそ、特別私にその役割を授けたんじゃないだろうか…と思っていた。そして私がその役割を放棄したら興味をもってもらえなくなるかも、という怖れもあった。でも私の決意は固かった。

そうして、書いたことは前作の「浮き世の画家」とほぼ変わらないのに、「日の名残り」は世界に広く受け止められ、私が世界的に知られるきっかけとなり映画も制作された。