2021年5月30日日曜日

長い長いトンネルのその向こうに このタイミングで、フランクルをまた読む


フランクルの『夜と霧』をまた読んでしまった。人生に迷った時に読むには良い一冊だ。強制収容所に入れられた精神科医の回想録。読めば読むたびに新しい発見があり、心を新たな気持ちにしてくれる。これぞ真の名著だ。人生に意味はあるのか。それに応えるすごい本。

自分が弱っているのかな、と思う時がある。ついついスーパーマーケットで3,000円以上一度に食料品や日常品を買い込んでしまう時。本をやたら読みたくなる時。ネットで情報をひたすら収集したくなる時。不安だから、こんなことしてるんだ、と自分でも分かっている。

『夜と霧』がくれるパワーをまた感じたかった。それも私が、今、自分をとりまく世界に失望しているからなのだろう。

これ、ほんとによくない。自分のパワーが落ちる → 不安になって情報収集 → さらに不安になってまた落ち込むの繰り返し。こんなことしていると、本当に負のサイクルに陥ちいって、抜け出せなくなる。そんな時に、この本は、なんだかじわじわとすごいパワーを私にくれる。

とはいえ、今回読んだら、なんだかいろいろ目が覚めた部分もある。例えば先日の落合陽一さんの本を読んでからは、この本はめちゃくちゃヨーロッパ的だよなと思えた。かつ宗教的だとも思えた。宗教も宗教で、いわゆる一神教的だよなだと思えるところが、たくさん感じられた。この考え方は従来の…集団の中で無難に生きることが良しとされる日本人にはあわないのかもしれない、とも思う。そういえば、遠藤周作のキリスト教をベースに描いた『沈黙』にもいたく感動し、一番好きな本と言ってきた私だが、日本人にはやっぱりこう言う考え方はあわないのかもとも思えた。

ただ自分では良くわからないけど、1966年生まれのヨーロッパ好き、かつ超個人主義の私には、フランクルや、キリスト教的考え方の方が何かと自分にしっくりくる感じはする。神様なんていないだろう。だけど何かの「コール」に答えていく、という感覚は、ものすごく実感できるんだ。あと自分は許されているんだ、って言う強い実感もね。

人生に何を求めるのかではなく、人生の問いに答えていく… あなたがどんなに人生に絶望していても、人生の方はあなたを絶対に見捨てない。ずっとずっとあなたに問いかけてくる。自分の内側を見つめるのではなく、この先の人生であなたを待っている何かを見つめなさい、と。

「何をして暮らしているか、どんな職業についているかとかは結局はどうでもいいことで、むしろ重要なことは自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれだけ最善をつくしているかということ… 各人の人生が与えられた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているものだ、と」

「困難に対してどういう態度をとったかによって、その人本来のものがあらわれ、また意味のある人生が実現される」

ところで今回新しく読んだフランクルの講義をまとめた本『それでも人生にイエスと言う』なのだけど、この本、本編よりも実は解説が良かった。山田邦男さんというフランクルをたくさん訳されている翻訳者によって書かれたもので、フランクルのメッセージを簡潔に力強く伝えている。解説は数ページにおよび「翻訳者後書き」ではすまされない充実度だ。

それにしても、もう何度目かの『夜と霧』を読んで、今回一番響いた部分は、実は強制収容所を出た、その後の人生との折り合いの付け方についての部分だ。苦痛を強いられ、本当に生きていくことだけで精一杯、正気をたもつだけでも精一杯という中、突如与えられた自由と開放。しかしそれに対する感覚がすぐには戻ってこない、手放しでは喜べないということに気づいていく。実はあんなに会いたかった家族は、もう自分を待ってくれてはいない…とか。

これはまるでコロナ禍に苦しめられている私たちのようなもんだ。この出口の先にあるものは、もしかしたら…というか、ほぼ間違いなく天国ではない。手放しの自由でもない。実はコロナ前よりも、もしかしたらコロナの最中よりも、さらに悪い人生が待っている。私は自分は極めて明るい、楽観主義者だと思っているが、これは断言できる。たぶん人生はどんどん悪くなる。

コロナになった時思った。将来、あれをやりたい、これをやりたい、と思っていた人たちは後悔しただろうな、と。私たちに時間なんて残されてはいない。残された時間はどんどん、どんどーん厳しくなる。でもだからこそ。だからこそ今やろう。自分で決めていこう。自分で行動しよう。やりたいことを諦めずにやろう。

先日好きな女優さんのエッセイを読んでいて書いてあったことにハッとしたんだ。女優というのは「待つ」仕事なのだ、という。そうだろうな、と思った。演じることにフォーカスしたら、確かに仕事がくるのを待つしかない。演じることが重要なのであれば、自分を生かしてくれるコールを待つしかないわけだ。彼女は才能がものすごくある人で、きっとこの先も待てるのだろうが、凡人の私は待ちたくない。たとえ勇み足だったとしても、自分の意志で動こう。それを人は馬鹿と呼ぶのだろうけど。あぁ、その通りだ、私って馬鹿なのよねと答えていこう。

ところで『夜と霧』にはヴァージョンが二つある。終戦直後に書かれたものと、80年代に書かれたもの。旧ヴァージョンでは実は「ユダヤ」と言う言葉はまったく出てこないのだそう。というのも、フランクルは、この本をユダヤだ、強制収容所だということではなく、人類のための普遍的な作品に仕上げたかったからだという。確かに著者のそんな強い意志が感じられる。とにかくパワフルな本。そんなわけで、今回旧ヴァージョンも手に入れてしまった。旧ヴァージョンの翻訳者と、旧ヴァージョンに敬意を表し遠慮がちながらも勇気を持って担当したという新ヴァージョンの翻訳者と、両方のコメントを読むにつけ、旧ヴァージョンの方も、またゆっくり読んでみたい。

不安になると本を買う。辞められないなぁ… 私もきっとこのコロナ禍で、平気を装っているけれど、実際はめっちゃ不安なのかもね。でも迷った時に読む本があって私は幸せである。

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