2012年2月15日水曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり21:これがネタ本だ

プランクシティ関連のネタはこの本からほとんど拾っています。


この本、実はルナサのケヴィン・クロフォードが自分が読んでいた本が(たしか英国)ツアー中に読み終わったので、その時遊びに来ていた私にサインしてプレゼントしてくれたもの。

これも伝統音楽たるゆえ? 1つの流れの中にすべてがある。それにしても名誉ですよね〜。ありがとう、ケヴィン!


当時のパンフレットの様子。こうしてみるとプランクシティはルックスも結構かっこよかったんじゃないでしょうか?


「プランクシティ、年末に解散」と。ふむ。


ポールとアンディ。

















日本では在庫なし、もしくは法外な値段みたいだけど、AMAZON UKでリーズナブルに買えます。もうペーパーバックで出ているみたいですね。

ポール・ブレイディ来日までの道のり20:プランクシティ

ポールが伝説のバンド、プランクシティに在籍していたのは、実はあまり知られていないのかもとふと思った。というのも、ポールが在籍していた頃のレコーディングが一切ないからだ。今みたいにインターネットもないから、CDが…じゃないレコードがリリースされない限り、遠い日本で認知されるチャンスなどまるでない。とはいえ、プランクシティは英国系の普通の音楽雑誌や新聞などでかなり頻繁に取り上げられていた。

プランクシティは本当に大変だったらしいけど、表面上は非常に成功しているバンドで有り続けました。ケンブリッジ・フォーク・フェスティバルでは12,000人のお客さんの前で演奏したそうです。英国中を周り、そしてその様子はメロディ・メーカーなどがとても高く評価していました。ちなみにガーディアンなどは「ホースリップスは最新作で商業主義に走った。この新しいバンドは、そういった危険を大きく超えた場所にいる」とプランクシティを紹介したそうです。かっこいいね(笑)

ポールいわく「僕らは通常のフォーク・ミュージック以上のものを作りたいといつも考えていたのだけど、日々の雑事に追われ、なかなかいろいろ整えたりする時間がなかった。それでも僕らの音楽に惹かれて、新しいフォーク・ファンではないお客さんがたくさん来ているようだった」と話しています。

リアム・オフリン「人々がダンスしたり手拍子したりしている時って音楽を聴いてくれてないんだよね。それは何か別の物を得ようとしている時だ。僕らの音楽はもっと“聴く為のもの”だった」←これすごい分かる。本当に聴いている時、お客さんは手拍子をしたりしない。

再びポール「僕らは真面目で厳粛なものをつくりたいわけじゃないんだけど、だからといって、ただの飲んべえのグット・タイム・フォーク・グループにはなりたくなかった。フォーク・クラブ的な楽しいMCもありつつ、でもちゃんとした音楽を届けたかったんだ」

このヘンの当たりがチーフタンズの「アイリッシュ音楽をステージにのせる」というコンセプトと非常に似ていて、でも非なるものだということを表してますよね。ここが、まさに、アイルランド音楽が進化を遂げた瞬間だと思う。やっぱりプランクシティはすごい。

そして、またこれがクリスティ・ムーアの「いわゆるベラベラしゃべってお客さんを楽しませるミュージシャン」と、ポールとのステージ上での態度の大きな違いとも言えるわけです。

いずれにしてもポールは楽しいだけじゃない、音楽的にも充分練られたものをステージに持っていきたかった。でもなにせ時間がまったくない。とはいえプレスの評価はものすごかった。SOUNDという音楽新聞は「ブリテンで一番素晴らしい伝統音楽のグループ。全ロックバンドがこのバンドをうらやましがるだろう」。メロディーメーカーはメンバー全員のインタビューを大きく掲載したそうで、その注目ぶりが分かります。

このヘンの英国プレスの盛り上がりは、90年代になって私がアイリッシュミュージックと初めて出会った頃の興奮を彷彿させます。だからすごくこの気持ちが分かる。アコースティックなのに、こんなにロックっぽい。そしてこんなに熱い。こんなにカッコいい、こんなにソウルがある!ってね。

75年バンドはドイツをツアーします。この頃のステージのスタイルは、だいたいソロセットで構成されていたんですって。最初にリアムがまったくのパイプソロを聴かせたあと、ポールがステージにあがりソロ。次にアンディ、ジョニーのソロと続き、最後に全員で演奏。そんなスタイルだったのだそうです。バンドは大変だったけどアンディは当時友人にあてた手紙で「本当に大変だけど、いろいろ進化していきているし、きっと僕らはもっとビックになれると思う」と綴っています。

その年の10月、バンドは再び英国ツアーへ。しかしここで税金やら何やらややこしい問題が発生。つまりマネジメントがまるでなってなかったのだと思われます。バンドは経済的に窮地に建たされます。当時のバンドのドライバーを勤めた人の証言では、みんなすごく仲良しだし、良い人たちだった。特にアンディは本当に親切にしてくれたけど、とにかく彼等は全員ミュージックビジネスのゴタゴタには辟易している様子だった、と。そして第一期プランクシティの最後のツアーはフランスで、なんとあの伝説のマリコリヌとの共演だったそうですよ。すごすぎ!

バンドとしての最後の公演は75年12月5日、ブルッセルにて。リアムがバンドミーティングで「実は辞めたいと思うんだ」と言いだすとと、全員が「俺も、俺も」と続いたそう。

アンディの分析「ドーナルがバンドを離れた時、ちょっとパワーが落ちたと思う。ジョニーは素晴らしいプレイヤーだが、でもすごくリリカルな演奏で、エンジン・プレイヤーじゃなかった。僕もエンジン・タイプじゃない。ポールが入って、再びパワーがバンド内に戻ってきたけど、クリスティが抜けたことで多くのレパートリーが失われた。やはりこれが大きかった。クリスティはバンドにおいて自分が持っていたものをすべて持って独立してしまったんだ。レパートリーも、ステージでの楽しいおしゃべりも」

ポールの回想「当時はレコード会社からマネジメントから、いわゆる音楽ビジネスのインフラがアイルランドではまだまるで整っていなかった。そういうのが整いはじめたのはU2以降なんじゃないかな。当時、僕にはバンドのビジネス・サイドで何が起こっているのか分からなかったし、正直言えば知りたいとも思わなかった。僕はアイルランドに戻ってきて、バンドにいられることがとても嬉しかった。それだけだった。もちろんアルバムを制作出来たら、素晴らしかっただろうね。でも正直もうやってられないと思っていた。経済的にも大変だったし」

こうして各々のメンバーは別の道へと進み始めるわけです。

ポールが入っているプランクシティの映像ってこのくらいしかないわ。アンディが「ジョニーはリリカルな演奏者でエンジンプレイヤーじゃない」って言うの、分かりますね。とりあえず貼っておきます。




2012年2月14日火曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり19:再びアイルランドへ

ジョンストンズがニューヨークにベースを移した時は、きっと彼らにもそれなりの夢があったと思います。

ポールのRTEでのインタビューより。それは、だいたい72年ごろ。ちょうど最初のオイルショックがアメリカの経済を打ち砕き、もう最悪のタイミングでした。多くのレコード会社は、新しいアーティストに興味をしめしなんてしない頃…というか、実際多くのすでにヒット曲を持つアーティストでさえも首を切られるかという時期だったのです。本当にタイミングとしては最低だったとポールは話しています。「もうバンド内は、音楽的にも性格的にも内部分裂がひどかった。そして僕はアメリカでスタックしてしまったのさ。本当に不安だった。でもアイルランドに帰るのは気がすすまなかった。もう一度ゼロからやりなおさなきゃいけないのか、と思うと」


ジョンストンズの解散ですが、先日の投稿に73年と書きましたが、ポールのプランクシティ本でのインタビューによると72年の半ばにはもうほとんど解散状態だったようです。72年のクリスマスにポールは一度アイルランドに戻り、1月にミルトンマルベイで行われたウィリー・クランシーのお葬式に出席します。そういえば、ここでポールは奥さんとなる女性に最初に出会ったと言っていましたね。そしてまた1年くらいまたアメリカに渡ることになるわけですが。


「お金もまったくなくなってしまった。その頃、僕はアップタウンに住んでいたのだけど、ウォールストリートへバスキングにいったんだ。ティンホイッスルを持ってね。でもまるでお金は集まらず、帰りの汽車賃もなくて、トボトボと歩いて帰った(ウォールストリートからアップタウンまで、だいたい3時間くらいですかね)」「当時のガールフレンド、今の妻になった人なんだけど、アイルランドにいる彼女に書く手紙が3ページまでだったら21セント、4ページだと42セントになっちゃうっていうのをはっきり覚えてる。つまりそのくらいお金が大変だったということだ」

そしてそこにリアム・オフリンからの手紙が来たわけです。「リアムから手紙が来て、クリスティ(ムーア)がバンドを辞めるから代わりのシンガーとして、プランクシティに入らないか、と誘われた時は、とても嬉しかった」

ポールは当時プラクシティは、アンディ・アーヴァインがやっていたスイニーズ・メンの発展系だと考えていたのだそうです。「自分にとってはスイニーズが発展し、そこにパイプが加わってクリスティが歌っているのがプランクシティというイメージだった。だからそのコンビネーションがどんなに新しく素晴らしいものかも、彼等の演奏を観る前から分かっていたよ」

ジョンストンズとスイニーズ・メンはよくツアー先で一緒になったり、ダブリンの有名なパブ 、オドノヒューズで合流したりして、お互いとても仲が良かったそうです。実はポールはジョニーが具合が悪かったある日、スイニーズで代打を勤めたこともあるのだそうです。そのときはアンディーとテリー・ウッズ(ポーグス)とのトリオで、ポールはスイニーズのあのストライプのシャツとベストをちゃんと着てステージにあがったそうですよ。どっかに写真残ってないのかなー(笑)。実際ポールがジョンストンズにいるときも、アンディはポールをスイニーズに誘ったこともあったのだそうです。

いずれにしても、プランクシティに参加することに決めたポールは74年にアメリカから戻り、ストラバーンの実家へと帰宅したのでした。まずはストラバーンに近いドニゴールで行われたプランクシティのコンサートに招待され、ポールは出かけていきます。そして終演後、彼らは一緒に打ち上げのためにパブへ行き、ポールはそこで初めてメンバーの前で「Arthur McBride」を歌ったそうです。

アンディが答えます。「もう僕らはぶっとんだね。残念ながら彼は当時それほどレパートリーが多いわけではなかった。でも間違いなくポールはこのときのバンドに大きな力を与えてくれた。ほんとうにダイナミックなエネルギーと力の演奏者だ。まるで火山みたいださ。ステージで爆発するのさ」

再びポール「実はArthur McBrideはアンディのレパートリーでもあったんだ。彼のヴァージョンも素晴らしかった。だからこの曲を演奏するのはちょっとずうずうしいかな、と思ったのだけど、でもアンディは許してくれそうだったから、演奏した」
「ダブリンのカールトン・シネマが僕らの最初の公演だった。それはかなり大きめの公演だったが、それが観客の前でArthur McBrideを歌った最初の公演さ。そして僕らはケンブリッジ・フォーク・フェスティバルにも参加した。クリスティはなんだかんだで、その年の10月までバンドにいたが、ついに脱退した。でもあの5人でバンドをやっていた時期は、楽しかったなぁ」

これが74年のArthur McBride。「Oh me and my cousin,  one Arthur McBride as we went a-walking down by the sea-side.  僕と僕のいとこのアーサー・マクブライドは海辺を散歩していた」I had a first cousin called Arthur McBrideと歌いだすヴァージョンもあるそうですが、曲のナレーターもいとこも両方アーサー・マクブライドという名前の設定なのだという解釈が広く認知されているようです。ま、伝統歌だから、どのようにでも解釈できるよね。のちにポールがボブ・ディランもポールにギターを教わり録音した名曲であります。その、ディランにギターを教えたエピソードなどは、またのちほど。これはポール27歳のときの演奏。

2012年2月13日月曜日

MUSIC FROM FINLAND 2012、印刷があがってきました〜

出来ました! 

今回ちょっと紙をいい紙を使って印刷してみました。手触りとインクの盛り感をお楽しみください…(笑) 

本日夕方からチケットを発送する分から、皆さんへ送る封筒にも同封し始めています。 

まぁ、いずれにしても会場で配りますからね… 皆さん、レコード店などで見かけたら、ぜひお手にとってくださいまし〜。

それから「ウチは雑貨屋なんだけど、置いてやる」「ウチはラーメン屋なんだけど、置いてやる」「ウチはバーを経営してんだけど、ぜひ置いてやる」という奇特な方がいらっしゃったら、ぜひこちらまでご連絡ください。

ヴェーセン、元気です

かっこいい。ホントにかっこいい。世界で一番かっこいいなー。


L@tDBL - VÄSEN - Eklundapolska no3 from Precious Productions on Vimeo.

コローナズ、元気です



セレブの彼女出演させちゃって、彼らもホント遠い人になっちゃったなー。いつか世界的にビックなバンドになるんだろうか。頑張れ、ダニー。頑張れ、コローナズ!

2012年2月12日日曜日

整理番号について


スヴェングのチケットの整理番号についてE+からチケットを買おうとしたお客様よりお問い合わせをいただいたので、こちらにも案内しておきますね。

入場整理番号ですが、一番良いのは当サイトで買った方になります。ちなみに番号は整理番号はあくまで入場の整理のためにつけているもので全体の座席数とは関係ありません。

いずれにしてもE+のチケットは一番番号が遅くなりますね〜。理由はE+などチケットエージェントに出すチケットは、内側でしっかりパーセンテージ手数料を取られるからです。それでもE+はかなりリーズナブルで納得価格ですが、ぴあなんてホント法外な手数料とってましたからね。しかもぴあは内側でプロモーターらにチャージするだけではなく、チケットの代の外側でもお客さんに何かとチャージしている。ウチはもうこれからは余程のことがないかぎり、ぴあは使わないと誓ったわけですが、いずれにしても手数料を取られてただでさえ少ない利益が減ってしまう。そこに良い番号を振り分けるプロモーターは、常識的に考えるといないと思います。(ま、他社さんに確認したわけではないですけどね…)

なので、今回のスヴェングの公演はE+については400番代で整理番号を振ってます。北とぴあ:つつじホールは402席の会場ですが、PAのデスクとかも出すし、実質370席くらいかなと思っています。それにチケットの売れ具合によっては、200番の次が400番のお客様ということもありうります。

…この説明分かりにくいかな。つまり当日「1番から10番のお客様〜」とか言って整理しながら会場へご案内するわけですが、「60番代のお客様〜」の次がいきなり「400番代のお客様〜」となる可能性だってあるわけです。(まぁ、そうならないように頑張ってプロモーションするわけですが)

このようにチケットは発売したら終わりではなく、毎週毎週売り上げレポートと格闘しながら、番号を調整して販売していくわけです。

ちなみにウチの公演は、ほとんどの場合ウチのホームページから買ってくださる方がほとんどで(平均80%くらいかな…公演にもよりますけど)、当然のことながら一番良い番号をウチのレギュラーのお客様に買っていただけるよう、当ホームページ販売分としてキープします。

そして具体的には、現在ウチで申し込むとスヴェグの公演のチケットの番号は50番台の後半です。E+は400番代です。

ただし40番代は北とぴあさんに委託したるため、2/12夕方現在、北とぴあのカウンターで、もしかすると40番台が多少残っている可能性があります。ただしあそこは実際に買いにいかないといけないのでご自宅から遠いと大変かもしれません(電話/メール等での問い合わせ一切なし。あくまでカウンターのみです)。王子駅からは徒歩1分くらいなんで便利は便利ですけどね。

いずれにしても公演のチケットを買う時にご心配であれば、私にメールされるかTwitterでメンションして話しかけてみてください。いずれにしてもチケットは、そのときの状況で、刻々と変わりますので、問い合わせされるのが一番かと。

そうそう、それからウチのホームページで申し込まれた方:最初振り込みや決済が済む前にご案内する番号は、こちらの整理上の都合のため日程+整理番号という形の4桁番号で案内してます。まぁこのヘンは申込のページをよく読めば書いてあるのですが、時々15日の公演を1530とか案内して「おまえはキャパシティが200しかない会場で1530名もチケットを売っているのか」と怒られたことがありますが(笑)、「予約番号」は「整理番号」とは違いますので、ご理解ください。

ちなみに、さらに、なんで違うのかという質問にもお答えしますと、時々振込をすっぽかして予約を無断キャンセルしたりする方がいらっしゃるからです、ハイ。

他のプロモーターさんは、あまりこういう情報をオープンにしてないとは思いますが、一応これがウチで考え構築し長年使っている方法で、今のところベストかなと考えています。ま、何か疑問に思ったら私に直接聞くのが一番。そしてその前に一応ググレカスじゃないですけど(笑)、注意書きは一通り目を通していただければ幸いです。

いつも本当にご愛顧、感謝です。Thank you for supporting good music!

ポール・ブレイディ来日までの道のり18:ジョンストンズ

もっともジョンストンズを「伝統音楽」と言ってしまうには、ちょっと抵抗がある。すでにポールが加入した時点でジョンストンズはNo1ヒットを出していたし、ポールにとっては良いステップになったのは間違いない。でも当時、たとえばアンディ・アーヴァインとかがすでにかなりクリエイティブなものを作っていたのに比べ、ジョンストンズはポップミュージックというか、イージーリスニング的に聞こえる……とか言って、私も実はよく分からないんですわ、ジョンストンズ(笑)。ま、ポールがいたから、CDやアナログ盤は数枚手にいれたし、この前の投稿に貼付けたみたいなかっこいい曲もあるけど、でも結局ろくに聞いてない。だから批判的なことはあまり言う資格もないのだけど、まぁ、いずれにしても、その後ポールがやっていた本当の真の音楽と言えるものではないと私は考えます。

ポールは大学は正式に卒業したんだか中退したんだか、ジョンストンズに加わり、イギリスへ、そしてのちにニューヨークに渡ることになったわけです。

もともとジョンストンズはマイケル、エイドリアン、ルーシー・ジョンストンからなるミース州,スレーン出身の兄妹グループでした。60年代に活動をはじめ、65年にイワン・マッコールの「Traveling People」を録音し、これが大きなヒット曲となり、ミック・モローニーがその後加入し、がっつり成功したグループという地位を獲得したものの、すぐにマイケル・ジョンストンが脱退。マイケルのかわりにミックは自分の階下に住んでいたポールをグループに迎えいれた、というわけ。68年にはロンドンのTransatlantic Recordsと契約しアルバムをリリース。ルーシーが脱退しつつもトリオとなったジョンストンズは活動の拠点をロンドンに移し、英国、ヨーロッパではそれなりに知られたグループとなったようです。まぁ、ヒットしていたとはいえ小さい市場じゃ生活できない、アメリカに行かないとダメだ、という判断だったのでしょう。そして、その後、ニューヨークに渡り、アメリカでもジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」をカバーしたものが、ちょっとしたヒットになったそう。

このジョニ・ミッチェルとのエピソードで面白いのがあって、ちょっとうろ覚えなんだけど、ジョンストンズはジョニ・ミッチェルと、どっかのフェスティバルだかTV番組の収録だかで一緒になり、しかも一緒に歌うという話まで出て、もうポールをはじめとして若いジョン・ストンズはワクワクしていた、と。ところが先に出演したジョニ・ミッチェルは「確かこの曲をカバーした若いアイリッシュグループがいたわね」とか言って、先にとっとと「BOTH SIDES NOW」を歌ってしまい、共演の話は撃沈。おかげでポールたちはホントにがっかりしたそうです。(もっともジョニ・ミッチェルとはその後、楽屋で挨拶ができた、とか言ってました)

でもって71年にはミックが脱退。(ミックは音楽の勉強のためにアイルランドに戻ったのだそうです)エイドリアンとポールの二人だけになったジョンストンズは、それでも活動を続けていたのだけど、最終的に73年についに解散。その後、ポールはプランクシティに誘われ、アイルランドへ帰国。

なおエイドリアンはアメリカに残り一人でソロ活動的なことを続けていたのだけど、結婚し、そして81年に35歳の若さで、ミネアポリスで謎の死をとげています。どこからか落ちて首の骨を折ってということで事故死と判定されたようだが、実はドメスティック・ヴァイオレンスによって殺されたのではないかという説が有効。彼女がなくなる前の6年間、彼女の家族は彼女の両親や親戚が亡くなった時でさえも、彼女に連絡を取ることができなかったそうで、これはもうこれだけで異常な事態だったと想像されます。また彼女の友人たちは10年以上、彼女の死を知らされていなかったらしい。彼女のサンディ・デニー的なルックスもあり、私たちリスナーにとってはミステリアスな存在です。

ちなみにジョンストンズはつい最近、オリジナルメンバーにニーヴ・パーソンズをエイドリアンの代打に迎え、リユニオン公演を行っていて、これにポールもこれに参加しています。You Tubeでいくつかの映像を見ることができます。これとか。そして下記はリユニオンに際して放送されたラジオか何かの音声に誰かが写真を編集したもの? 頭のポールの写真がルーシーとかになっているのが笑えますが。

2012年2月11日土曜日

ポール・ブレイディ来日までの道のり17:ダブリンへ

From Paul Brady.com

St Columb'sを卒業したお坊ちゃんたちは(笑)、通常北アイルランド1の名門校Queen's College(ベルファースト)に行くのが普通なのですが、たまたまポールが卒業した年はアートを希望した学生が多く、ポールはSt Columb'sにもう1年残るか、もしくはUCD(ダブリン)に行くかどちらか選択をせまられ、ダブリンに行くことを決意したのだそうです。まぁ、どちらに行っても超名門校であることに間違いはないですが。

いずれにしても無事試験にパスして、64年にダブリンに出てくる。これはポールにとっては、まさに自由への飛翔みたいなもので、本当に大きな第一歩だったのだそうです。ダブリンに来るのはポールはまったく初めての経験だった。なにせベルファーストですら行ったことがなかった。両親ともダブリンに知り合いがいるわけでもなく「ウチのポールが何やってるか、ちょっと見てきて」なんて言える知り合いもなかった。そのことが幸い(災い?)して、そこでポールは本当に自由を謳歌します。謳歌しすぎて音楽にのめりこみ、学校の成績はさんざんなものに…(笑)

いずれにしても、このとき、ポールがのめり込んでいたのはリズム&ブルーズやソウルミュージックのようなものだったといいます。アイルランド人といったら子供の時から伝統音楽に親しんでいた、と思う人が多いと思いますが、そんなのはホンの一部。ラジオがあれば、子供はかっこいいロックンロールに飛びつきます。ポールは、まだまだかっこいい本当の伝統音楽には出会っていない。実はポールが下宿していたフラットの下の階にはミック・モローニー(のちにジョンストンズ)が居たのだけど、当時ミックはドーナル・ラニーとエミット・フォーク・グループ(のちのスパイスランド)というグループをやっていて、ポールは練習を聞きに下へ降りていったりしていたものの、いまいちフォーキーな音楽、伝統音楽的なものは好きにはなれてなかったと言います。ちなみにポールは最初のボブ・ディランのファーストを聞いて「なんだ、こいつは。歌もろくに歌えないじゃないか」と思ったのだそう(笑)。もちろんボブ・ディランがその後、音楽に文学的なものを持ち込んだ素晴らしいアーティストだというのは認めるよ、とポールは発言しています。

Emmet Spicelandってこんな感じ。ドーナル可愛いわぁ〜。さぞかしもてたでしょうねぇ…。


ちなみに彼らの最大のヒット曲「Mary from Dungloe」はこれ。時代ですなぁ〜。いずれにしても若いポールにアプローチしなかったように、私が聞いても、なんというか、音楽的にクールなもんではないですよね、これは。

とにかくその頃のポールといったら、リズム&ブルーズにどっぷりだった。60年代のダブリン。田舎から出てきた若者は、ある日セントスティーブンスグリーンで「リズム&ブルーズ」のポスターをみつけます。ここでコンサートに行ってみて、初めてバンドってすごいと思ったらしい。それまでのポールの音楽といったら学校で習うクラシックそしてピアノ、そしてたまの休日で家に帰るとラジオを夢中で聞き、まったく自分でギターを弾いていたくらい。そしてどうやら夏休みは近所のホテルでピアノやギターをひく、おそらくアルバイトのようなものをしていたらしいのだけど。まぁ、せいぜいその程度。その時点までバンドというものは一切関わったことがなかった。

あまりのかっこよさにしびれまくったポールは、そこで出演していたバンドに「僕は北アイルランドからやってきたんだ、すごく上手いんだよ」と必死に自分を売り込む。バンドは「なんだこいつ」と思いながらも、しつこく迫るポールにBrendan Bonassというギタリストが「じゃあ土曜日にアングルジー・テニス・クラブでやるから、その時、オーデイションをしてやるよ」と声をかけてくれたらしい。ここでチャック・ベリーのギターなどを披露してみせたら、無事合格。これが The Inmates、そしてThe Kultというグループ。そしておそらく65年の4月頃、Rootzgroopというグループに加入。66年の夏にはすでにメロディメーカーあたりは、このグループを「アイルランドでもっとも伸び盛りのバンド」と評していたらしいから、すでにこの頃からポールにとって音楽はお遊びの域を超えたものになっていたのかもしれません。いずれにしてポールは、ダブリンに来て初めて「もしかしたら音楽で食べていけるかも」と思ったのだそうです。

そのあとRockhouseというバンドにも加入していたのだけど、ここでいよいよ両親に学校にいっていないことが発見され、半年くらいでバンドを辞めるはめに。いずれにしてもこのヘンでやってたのは、もう完璧にリズム&ブルーズのカバー。ストーンズやチャック・ベリー、リトル・リチャード、シャドウズとか、そのヘンのカバーだったらしい。

学業を続けるべくバンドを辞めたポールだったけど、そりゃーもちろん音楽を辞めるというわけではなく(笑)、もっとスケジュールが自由になるようにと(学業との両立を一応狙ったんでしょうかね)ソロ活動を始めたのだそう。アコースティックギターを持ってアコースティックブルーズを歌う、そんな感じで、フォーククラブを周りはじめ人のオープニングをなどをやりはじめた流れで、ジョンストンズのオープニングもやるようになったのだ、と。またこの頃、チーフタンズのショーン・ケーンの兄弟のジェイムス・ケーン(アコーディオン)に出会い、彼との出会いが伝統音楽のへの興味へのきっかけになったのだそう。このヘンは66年だと思うとポールは言っている。そして翌年67年にジョンストンズに誘われ、加入し、10-12年はずっとアイルランドの伝統音楽にどっぷりだった、とポールは話している。

アイルランド・フェスティバルのFacebookページが出来ました

今日は営業外周りの日。まず、朝は髪の毛をばっさり切って、久々にパーマまでかけて気分転換。午後から張り切って都内をまわります。ホント歩いたなー。チラシを置きに新宿、吉祥寺、渋谷、恵比寿… 2万歩は間違いなく行ったかな。というわけで、自分にご褒美。ワッフル+紅茶。1500円ほどなり@新宿のユニオン前のラ・ミル。もうすぐ閉店らしい。




今日の最後はアイルランド大使館公邸にてセント・パトリックス・デイ、毎年恒例の決起会が行われました。で、パンフレットにウチの公演も知らない間に載せていただいてました(笑)。ありがとうございます〜。そういや3月だから、そういう気分ですよね。




そこで知ったのですが、これがアイルランド大使館が作ったセント・パトリックス・デイのためのFacebookページです〜。いろいろ告知もあるようですよ。面白い情報がゲットできるかもしれません。皆さんも良かったらLikeを! こちらです〜。

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